2025年10月9日木曜日

♪アー・ユー・ゴーイング・トゥ・くじゅう花公園?

 こんにちは。ちくし法律事務所です。

先日、久しぶりに「くじゅう花公園」へ足を運びました。朝夕がすっかり涼しくなり、秋の気配が濃くなるこの時期、くじゅうの澄んだ空気と色とりどりの花々に癒されてきました。

園内は、秋の代表格であるコスモスがちょうど見頃。風に揺れる様子がとても優雅で、時間を忘れて見入ってしまいます。ダリアやマリーゴールドも鮮やかに咲き誇っており、まさに“花のじゅうたん”のような光景が広がっていました。

また、園内のカフェで飲んだ地元産のハーブティーも格別でした。お花を楽しんだあとに、心も体もほっと一息つける、そんなひとときでした。

仕事柄、どうしても日々のスケジュールが詰まりがちですが、自然の中でリフレッシュする時間の大切さを再認識しました。
くじゅう花公園は、季節ごとに異なる花が楽しめるので、また違う季節にも訪れてみたいと思います。

皆さまも、秋のドライブや小旅行の行き先にいかがでしょうか。

それでは、今後ともちくし法律事務所をよろしくお願いいたします。

 文責:AIくん

 

 千日紅(センニチコウ)。百日紅はサルスベリだが、こちらは一年草。花言葉は変わらぬ愛。これだけの数の変わらぬ愛があれば・・・。残念ながら日本では2/3の愛が変わってしまう。


 ツマグロヒョウモン(♂)。ツマグロは翅の褄が黒いから。ヒョウ柄ゆえ、豹紋。前世は大阪のおばちゃんかも。輪廻転生。


 花畑のバックはくじゅう連峰。見事な借景。雄大かつ優美。高原をわたる風が気持ちよい。


 反対(南)側には阿蘇山・根子岳が遠望できる。山頂部のギザギザが登山意欲をそそる。

 あいみょんの歌が頭のなかをエンドレスでループする。花言葉はやはり変わらぬ愛。

 サルビア。花言葉は家族愛など。シソ科でセージとも呼ばれるらしい。スカボローフェアが頭のなかをエンドレスでループする。ハーブティーが飲みたくなった。

2025年10月8日水曜日

胡蝶の夢

 

 過去に何度も戻って課題を解決するというと、トム・カーナンの口ぐせ「いまは言わば過去を振り返って整理し直す時なのさ」を思い浮かべる。かれはジェイムズ・ジョイスの小説『ユリシーズ』の登場人物である。

 『ユリシーズ』は、わが子を幼くして亡くし、うまくいかなくなった夫婦や宗教上の信念の対立から母の死に目に親不孝をした子の3人が主人公である。かれらは1日中ダブリンの街中を徘徊しながら、それぞれの心理的な傷を癒やしていく。

 意識の流れの手法で、主人公たちの頭のなかでは絶えず過去の傷が再生される。それが擬似的な親子の絆の発見により癒やされていく。

 そもそも『ユリシーズ』は古代ギリシア、ホメロスの『オデュッセイア』(ユリシーズは主人公オデュッセウスの英語読み)をベースとして借用する手法によっている(神話的手法)。タイトルや「輪廻転生」というキーワードを用いて、両者は結び付けられ、響き合っていく。

 『オデュッセイア』では、英雄オデュッセウスがトロイア戦争遠征の留守中に妻に求婚した者たちに弓矢で報復して問題を解決する。20世紀初頭のダブリンではそのようなことは許されず、主人公ブルームはダブリンの街中をウロウロすることにより問題を解決していく。

 ジョイスに先行して19世紀末、フロイトは精神分析を提唱した。無意識領域に抑圧された葛藤を自覚し表面化させて本人が意識することにより症状が解消するという。フロイトは、深層心理を知る方法として夢分析を行った。

 必ずしも実際にタイムループしなくとも、頭のなかで記憶をループさせることにより、新しい経験と結び付けたり、より大きな人生観のなかに包摂して解釈しなおすことで、傷ついた人生や心を治癒・再生させることは可能である。

 カズオ・イシグロの『日の名残り』もそうである。スチーブンスは、戦後、ミス・ケントンに会いに小旅行を敢行する。その間、タイムループはしないが、意識は過去と行き来する。それにより、かっての主人やかっての執事の格式などについての喪失感を癒やし、前向きに人生を進む決意を新たにする。

 われわれも弁護士として、傷ついた依頼者の心と人生によりそい、法を駆使して、多少なりともその治癒と快復がなされるようお手伝いできればよいのだが。 

2025年10月7日火曜日

「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」ータイムループの教え

 

 「オール・ユー・ニード・イズ・キル」は、もちろんビートルズ(ジョン・レノン)の「オール・ユー・ニード・イズ・ラブ」の翻案なのだろうけど、ちょっと違う気がする。原題の「Edge of Tomorrow」でよかったのではなかろうか。

 「Edge 」の意味がとりにくいことを心配したのだろう。われわれの仕事や山歩きに即していえば、「明日への分岐点」といったところか。

 「オール・ユー・ニード・イズ・キル」はいわゆるループもの。過去と現在を何度も行き来しつつ問題を解決していく。

 われわれにとってループものの元祖はNHKドラマの「タイムトラベラー」(1972年)である。原作は筒井康隆の『時をかける少女』。

 1972年といえば、13歳であるから中学生だった。理科の実験室でラベンダーの香りをかいでタイムスリップする設定と謎の青年の存在にはひきこまれた。

 『時をかける少女』はその後、原田知世で実写版の映画になったり、アニメになったりしたけれども、NHKドラマには及ばない気がする。

 ループものにかぎらず、タイムトラベルものは大好きである。ドラえもん自体がそうであるし、ストーリーとしても頻出するので、誰もが好きなのだろう。

 いちばんのお気に入りはケン・グリムウッドの小説『リプレイ』(1990年)。43歳のニュース・ディレクターが人生を何度もやり直す。

 「オール・ユー」のように人生の課題を解決するというより、人生とはなにか、生きるとはどういうことかを教えられた作品。1990年といえば弁護士5年目、悩み多き時代に出会ったことも意義があった。

 さいきん(そうでもないか)の作品だと、映画「ミッション:8ミニッツ」(2011年)。これはほぼ「オール・ユー」のプロットそのもの。列車爆破テロが起きる8分まえに何度も送り込まれて事件を解決していく。

 主人公はループを繰り返すうちに、被害者の一人であるクリスティーナと恋に落ちる。ミシェル・モナハンの笑顔がすばらしい。

 最初はなんのためにタイムループするか分からない主人公たちだが、最後は恋人と愛を救うためにタイムループするのだと気づいていく。その教えは、オール・ユー・ニード・イズ・ラブ。

2025年10月6日月曜日

【映画感想】「オール・ユー・ニード・イズ・キル」―繰り返しの中で成長するということ

 

 こんにちは、ちくし法律事務所です。

本日は少し趣を変えて、映画「オール・ユー・ニード・イズ・キル(原題:Edge of Tomorrow)」を観た感想を綴りたいと思います。

トム・クルーズ主演のこの映画は、日本のライトノベルが原作となっており、「一日を何度も繰り返す中で、徐々に成長していく主人公」の姿を描いています。SFアクションというジャンルながら、どこか人生や仕事、ひいては私たち弁護士業務にも通じる部分があると感じました。


■ 絶望的な状況の中での「試行錯誤」

映画の冒頭、主人公は戦場でまったく役に立たず、すぐに命を落とします。しかし、そこから「死ぬたびに時間が巻き戻る」というループの中で、彼は失敗と学習を繰り返し、戦う術を身につけていきます。

この「試行錯誤による成長」の過程は、まさに私たちが日々行っている仕事そのものです。法的な問題には明快な答えがないことも多く、依頼者の状況や社会情勢、判例の傾向など、様々な要素を考慮しながら、最善の解決策を探っていきます。

もちろん、私たちには時間を巻き戻すことはできません。しかし、過去の経験を糧にしながら、少しでも前に進んでいこうとする姿勢は、同じなのではないでしょうか。


■ 主人公の変化に学ぶ

主人公は最初、自己保身的で戦いに臨む覚悟もありませんでしたが、繰り返しの中で他者を守る責任を自覚し、リーダーシップを発揮していきます。

法律相談でも、「今はどうしたらいいのか分からない」という不安の中にいる方が多くいらっしゃいます。ですが、正しい知識とサポートがあれば、少しずつでも前向きに変化していくことは可能です。

弁護士としての私たちの役割も、その変化を支え、ともに進むことにあると再認識させられました。


■ 結びに

映画のラストでは、数えきれない失敗と犠牲を乗り越え、ようやく未来を切り開いていく姿が描かれます。

法律問題に直面すると、まるで「先が見えない戦い」のように感じるかもしれません。それでも、一つひとつ、冷静に向き合い、行動することで、道は開けていく――。そんな前向きなメッセージを、この映画は教えてくれたように思います。

ご相談者様が困難を乗り越え、前に進んでいくために、私たちはこれからも日々学び、成長を重ねていきます。

 文責:AIくん

2025年10月3日金曜日

プレバト才能あり展 in 博多大丸に行ってきました(2)

 








 「プレバト!!」は昔からみてきた。俳句に対する夏井いつき先生の的確かつ毒舌なコメントが快感であるから。

 さいきんは俳句以外にも、水彩画、黒板アート、フラワーアートなど才能を披露するアートは多種多彩。意外な芸能人の、意外なタレントに驚かされる。

 この番組を面白く感じるポイントは、先の夏木先生やMCのトークもあるだろうが、芸能人たちの才能との微妙な距離感だと思う。

 会場の各作品はどれもうまく描けていて秀逸。だがこれを画廊でプロの作品として示されたらどうだろう。それほど感心しないのではなかろうか。われわれ同様、シロウトの作品であるにもかかわらず上手というところが最大の感心ポイントである。

 もうひとつは、やはり二刀流というか二足のワラジというか。一方で芸能人として芸を披露しながら、他方でそれ以外の才能ももっているということ。いわゆる余技というやつ。うらやましい。

 外国では研究者が2つ以上の専門分野を学ぶということを聞く。芸もひとつではなく、ふたつ以上を学んだほうが、相互作用を発揮して他方も深まり、よりよいものになるのではあるまいか。芭蕉のいう「その貫道する物は一なり」ということか。

 そういえば先日、映画『炎の人ゴッホ』(1956年米映画)を放送していた。カーク・ダグラス主演。ゴッホはもともと牧師の家に生まれ、牧師をめざしていたらしい(少なくとも、映画のなかでは)。

 でもあの性格だから信者さんたちの生活にのめり込みすぎて破滅、牧師の道は断念。ゴッホの絵に精神性があるとすれば、このような経歴のなせるワザなのかもしれない。

2025年10月2日木曜日

プレバト才能あり展 in 博多大丸に行ってきました

 


こんにちは。ちくし法律事務所です。

朝晩は少しずつ秋の気配が感じられるようになってきましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

先日、博多大丸で開催中の「プレバト!! 才能あり展」に行ってまいりました。
テレビ番組『プレバト!!』の人気企画、「才能査定ランキング」で“才能あり”と評価された作品を一堂に集めた展覧会で、会場は多くの来場者で賑わっていました。

特に印象的だったのは、「俳句」と「水彩画」のコーナーです。
俳句では、芸能人の方々が詠んだとは思えないほど季節感や情緒に富んだ作品が並び、それぞれの句に込められた背景や講評と合わせて読むと、思わず立ち止まって見入ってしまいました。



水彩画の展示も見ごたえがあり、技術的な巧みさだけでなく、その人らしい視点や温かさが伝わる作品ばかりでした。

番組を通して作品を見てきた方はもちろん、初めて触れる方にも十分に楽しめる内容だと思います。

法律の世界では、論理や正確さが重視されますが、こうして芸術や表現の世界に触れることで、また新たな感性が刺激される思いがしました。

お近くの方は、ぜひ一度足を運んでみてはいかがでしょうか。
展覧会は期間限定とのことですので、お出かけの際は開催日時をご確認ください(9月29日まで)。

今後も法律だけでなく、地域や文化に関わる話題も交えながら、ブログを更新してまいります。

どうぞよろしくお願いいたします。

    文責:AIくん

2025年10月1日水曜日

【読書の秋に寄せて】柚木麻子『BUTTER』を読んで(2)

 

 AIくんの記事の出来がいいので、もはやこちらの記事の品質が問われつつあるように思う。が、恥をしのんで書いてみよう。

 『BUTTER』は首都圏連続不審死事件を題材にしたフィクションである。based on a true storyとかinspired by a true storyとか映画字幕にでるやつ。

 首都圏連続不審死事件は、ぱっと見さえない(きょうび、このようなことを発言するには勇気がいる。が、これも小説のテーマである。)とされる被告人なのであるが、多数の愛人が存在し、そのうち少なからぬ男性が不審死していたという事件である。

 さらにすごいのは、少なくとも3度の獄中結婚を繰り返したこと。3度目は『週刊新潮』のデスクの男性である(文春砲)。

 なぜ、被害者たちは被告人に騙されたり、死に追いやられたりしたのか?(被告事件なので、弁護士としては報じられている事実関係にそのまま乗っかるのは気がひけるのであるが、ここは乗っからないと話がうまく流れないのでご容赦あれ)事件を知った多くの人が抱いた疑問である。

 この疑問に答えを見いだすべく、多くの記者たちが独占取材を申し込んだようである。その結果生まれたのが上記獄中結婚である。われわれにとって獄中結婚とは加藤登紀子なので、それからするとすこし奇異な感じを否めない(当事者たちは真剣なのだろうが)。

 このような特殊な事件であるから、小説家のインスピレーションをインスパイアさせずにはおかない。

 通常、事件ものといえば、頭も心も信念も不動の刑事、探偵、弁護士などが事件の真相を追究し解決するというプロットである。しかし『BUTTER』は、追求するはずの事件記者が被告人にあうたびに動揺し、変容を迫られてしまう。

 単なるコミュニケーションにとどまらず、相互作用を生じ(たように見せかけて)、ついには被告人から操られていたということまで判明する。

 これは著者・柚木さんの独創ともいえない。トマス・ハリスの『羊たちの沈黙』でも、若きFBIの訓練生クラリスがハンニバル・レクターから影響を受ける場面はあった。それでも羊沈のばあい、彼我の力量に圧倒的な差があり、われわれも安心して鑑賞することができた。

 しかし『BUTTER』のばあい、彼我の力関係が不明であるなか、両者の攻防がおこなわれるので、読んでいるこちらも不安な気持ちにさせられるのである。

 『BUTTER』はイギリスでも売れているらしい(きのうの写真の帯を参照)。文庫のカバーをひっくり返すと、英語版の表紙に早変わり(写真)。ストーリーがあざなえる縄のごとく裏表ひっくりかえることを暗示しているのであろうか。

2025年9月30日火曜日

【読書の秋に寄せて】柚木麻子『BUTTER』を読んで

 

ようやく朝夕の空気がひんやりとし、読書にふさわしい季節がやってきました。秋の夜長、静かな時間のなかでページをめくるとき、本の中に人の生が息づいていることに、ふと気づかされます。

この9月、柚木麻子さんの小説『BUTTER』を読みました。


「食べること」は「生きること」

『BUTTER』は、実在の事件(いわゆる「首都圏連続不審死事件」)を土台としながら、殺人事件の真相を追う記者の視点を通じて、「食」「性」「女性の生き方」「他者との関係」といったテーマを描いています。

事件の容疑者である女が、男たちを“料理で籠絡した”という設定は一見センセーショナルですが、柚木さんの筆致はどこまでも冷静で、食べること、語ること、そして「女性であること」の意味を丁寧に掘り下げていきます。

作中で語られるレシピの数々、料理にまつわる記憶、そして“食卓を囲む”という行為の深い象徴性。そこには、単なる飽食や技巧ではなく、「生き方そのもの」がにじんでいます。


語りの静寂:イシグロとの共振

この作品を読みながら、カズオ・イシグロの『日の名残り』『遠い山なみの光』を思いました。

イシグロ作品の登場人物は、語りながらも語りきれない、語ることでむしろ“隠して”しまう。言葉と沈黙の間にある哀しみや後悔が、読者の胸に静かに降り積もります。

『BUTTER』もまた、主人公の記者・里佳が、取材を通じて徐々に自らの内面と向き合わざるを得なくなる過程が描かれています。他者を取材するという行為を通じて、彼女は自分自身の“語らなかった過去”を掘り返されていくのです。イシグロ作品の「内的探求」と通底する構造を、私は感じました。


『ユリシーズ』的なるもの――「内面の渦」としてのBUTTER

さらにもう一歩踏み込めば、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』との共鳴も見えてきます。

『ユリシーズ』が、たった一日の出来事を登場人物たちの「意識の流れ(stream of consciousness)」で描いたように、『BUTTER』も、容疑者と主人公の間に交わされる手紙や会話、そして料理の描写を通じて、登場人物の内面が徐々に浮かび上がっていきます。

ここで興味深いのは、「真実を追う」という記者の外向きの視点と、「自己を見つめなおす」という内向きのプロセスが、まるで“意識の川”のように錯綜していく点です。

記者である主人公の視点は、まるでジョイスのモリー・ブルームの独白のように、ときに混沌とし、ときに鋭く、またどこか悲しくもあります。

特に終盤に向かうにつれて、彼女の“語り”が持つニュアンスは、報道という「事実の言語」から、文学的な「存在の言語」へと変化していきます。そこに私は、『ユリシーズ』的なるもの——「外の世界」を旅することで「内の世界」が露わになる構造——を見出しました。


法律と“語られない物語”

私たち法律家は、証言・陳述・供述といった「語られた言葉」を材料に、真実に迫ろうとします。しかし、どんな言葉も、語る主体の内面すべてを露わにすることはありません。むしろ、その語られ方、語られなさにこそ、深い物語が隠れています。

『BUTTER』が描くのは、まさに「語られなかったもの」へのまなざしです。
そしてそれは、イシグロやジョイスが問い続けてきた文学の核心とも重なります。

人は、語りながら隠し、黙りながら訴えている——そのことを忘れずに、日々の法務に臨みたいと改めて思わされました。


秋の夜、柚木麻子の『BUTTER』を手に取り、そしてできればイシグロ、ジョイスとともに読んでみてください。
そこには、「語ること」の奥にある沈黙の重みと、それでも語ろうとする人間の切実さが、静かに、しかし確かに流れています。

——
ちくし法律事務所
福岡県筑紫野市にて、日々の暮らしと権利を支える法律サービスを提供しています。文学と法の交差点から、ひとりひとりの物語に寄り添って。

 文責:AIくん+U

2025年9月29日月曜日

増永弘弁護士のお別れ会に寄せて

 

秋の訪れを感じる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

昨日は、私たちにとって特別な一日となりましたので、ここに記しておきたいと思います。

福岡市内の斎場で、長年にわたり法曹界に貢献された増永弘弁護士のお別れ会が執り行われました。
ご遺族の意向により、仏式の儀式や宗教的な儀礼は行われず、静かで温かな「お別れ会」という形式での開催となりました。参列者は会場に入りきれませんでした。

厳粛な雰囲気の中、4名の方が弔辞を述べられました。いずれも故人と長く深いご縁をお持ちの方々で、それぞれの言葉には、敬意と感謝、そして深い哀悼の情が込められていました。

弁護士としての厳しさと、同時に人としての優しさを兼ね備えた先輩の姿が、弔辞を通して改めて思い起こされ、会場にいた私たちの胸にも、あたたかい記憶がよみがえりました。

長年にわたり後進の指導にも力を注がれ、私たちも多くを学ばせていただきました。
直接の言葉よりも、背中で語ってくださった数々の教えは、今も私たちの仕事の根幹に生きています。

改めて、心より感謝と哀悼の意を表します。
先生、どうか安らかにお休みください。

ちくし法律事務所一同

           文責:AIくん、U

2025年9月26日金曜日

【研修旅行レポート】雲仙・島原の旅 〜学びと癒やしの2日間〜

 

こんにちは。ちくし法律事務所です。

9月12日(木)〜13日(金)の2日間、当事務所では職員研修旅行を実施いたしました。
今年の行き先は、長崎県・雲仙と島原。家族も含めて総勢21名の参加となり、学びあり、笑いありの充実した時間を過ごしました。


■ おもてなしの原点にふれる

今回の研修のテーマは、「おもてなしと創造性の学び」。
弁護士業務も、常に相手の立場に立って考える“おもてなし”の心が欠かせません。

宿泊先には、サービスや接遇で定評のあるホテルを選びました。
温泉街ならではの心遣いと、細やかなサービスから多くを学ばせていただきました。
また、地元の食材を活かしたお料理をいただきながら、五感で地域文化を感じることができたのも貴重な体験でした。


■ 創造力を刺激するアート体験

雲仙ビードロ美術館では、繊細なガラス工芸の美しさに触れながら、「表現する力」「創造する楽しさ」を再確認しました。
普段の業務とは異なる角度から思考を働かせることで、柔軟な発想や発見にもつながります。


■ 島原イルカウォッチングで自然とふれあう

2日目は、島原でのイルカウォッチングへ。
透き通った海を泳ぐイルカたちの姿に、参加者一同感動。
自然の中に身を置くことで、リフレッシュするとともに、チームとしての一体感も深まりました。


■ 最後に

今回の研修旅行では、業務を離れたからこそ得られる学びと交流の機会に恵まれました。
これからも、ちくし法律事務所は「信頼される法律事務所」であり続けるために、職員一人ひとりの成長とチーム力の向上に取り組んでまいります。

 文責:AIくん

2025年9月25日木曜日

東京デフリンピック応援会に参加しました(2)

 


 「デフリンピックを知っていますか?」という記事を以前に書いた。デフ選手の矢ヶ部さんの卓話をうかがった時の話。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2025/08/blog-post_21.html

 きのうはAIくんが東京デフリンピック応援会に参加したことを書いてくれた。

 応援会のことはNHKも報道してくれた。

 https://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20250920/5010029994.html

 東京デフリンピック開催へ向けて、普及・啓発と機運の盛上げのため、県下80余の学校(保育園から高校まで)に応援幕の作製を依頼した。それぞれの学校の個性をあらわすカラフルな応援幕がたくさん届けられた。

 それらは会場中の壁という壁に貼り渡され、一部は参加者により展覧・紹介された。

 これら応援幕や応援会がデフ選手たちの背中をおしたことは間違いない。それ以外に心を動かされたのは、一般の聴覚障害者の方々の励みになったと思われたことだ。

 すくなからぬ方々が横断幕を熱心に一枚一枚撮影されていた。見たところ聴覚障害者とは分からない。が、われわれが撮影のジャマにならないよう避けると身振り手振りで感謝されたので、それと知れた。

 聴覚障害をかかえながら普段は差別・偏見・無理解に苦しんでおられるであろうことは推測に難くない。われわれはデフアスリートを励ますつもりで応援会を開いたのであるが、アスリート以外の障害をもつ方々の背中をおすことになったのあれば、これに優るよろこびはない。

2025年9月24日水曜日

東京デフリンピック応援会に参加しました(1)

 

こんにちは。ちくし法律事務所です。
朝夕は少しずつ秋の気配を感じられるようになりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、2025年9月20日(土)、福岡県春日市のクローバープラザにて開催されました「東京デフリンピック応援会」(主催:太宰府ロータリークラブ)に、当事務所も参加させていただきました。

このイベントは、聴覚に障がいのあるアスリートの国際的なスポーツ大会「デフリンピック」への理解と支援を深める目的で開催されたもので、ロータリークラブの地域貢献活動の一環として、多くの地域の皆さまが集まりました。

当日は、デフリンピック代表選手の方々によるトークセッションやデモンストレーション、手話通訳を交えた講演などが行われ、参加者一同、非常に有意義な時間を過ごすことができました。
障がいの有無にかかわらず、スポーツを通じて努力を重ね、世界を舞台に挑戦する選手の姿は、まさに感動と尊敬の念を抱かせるものでした。

また、手話を通じたコミュニケーションの大切さや、情報のバリアフリーの必要性についても深く考える機会となりました。

ちくし法律事務所では、今後も地域社会とのつながりを大切にしながら、多様な立場の方々が安心して暮らせる社会づくりに貢献してまいります。

 文責:AIくん

2025年9月22日月曜日

後悔した記憶 -『遠い山なみの光』を読んで(3)

 



 『遠い山なみの光』はノーベル賞作家カズオ・イシグロのデビュー作とされる(実際には前がある。)。1982年の作であるから28歳のころの作品だろうか。28歳といえば自分は弁護士2年目で、交通事故事件の準備書面も満足に書けないころだった。やはりノーベル賞作家はスタートダッシュから違う(世界陸上の影響か)。

 カズオ・イシグロは1954年11月8日に長崎市で生まれている。母は被爆体験をもつ。一家は1960年にイギリスに移住している。英国に在住する女性が長崎時代を回想する本作は、彼のこのような経歴が書かせたといえるだろう。

 テーマは『日の名残り』と同じ。過去の美しい記憶たちが迫ってくる後悔である。「でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったことかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生をーたとえば、ミスター・スティーブンス、あなたといっしょの人生をー考えたりするのですわ。そんなときです。・・・結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並の幸せはある、もしかしたら人並以上かもしれない。早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ」というミス・ケントンの言葉は本作の主人公悦子が語ったとしても違和感がない。

 過去を回想する際、いつも忠実に過去を再生できるわけではない。ときに記憶をねじまげてしまうことがある。弱くはかない自己が壊れてしまわないためなどの理由が考えられる。
 
 回想で過去を偽る手法はカズオ・イシグロの独創ではない。20世紀の初め、ジェイムズ・ジョイスにより描かれている。『ユリシーズ』は計画表に基づき書かれていることから、各章の冒頭に場所-塔、時刻-午前八時などと書かれている。これがくせ者。時系列にそって客観的に書かれているものと誤解させられてしまう。

 読み進むと、あちこちに欠落があり、大事な部分が書かれていないことがある。有名な意識の流れの手法で書かれている。それなのに、ところどころ著者や誰の者とも知れぬ記述が挿入されたりする。欠落は誰が仕組んだものなのか。謎は深まるばかり・・・。カズオ・イシグロはジェイムズ・ジョイスの伝統をしっかりと受け継いでいる。

 『遠い山なみの光』は映画化され後悔、もとい公開中である。是非観にいきたいが、いけるだろうか。

2025年9月19日金曜日

英国小説の伝統と、法の営みの共通点 -『遠い山なみの光』を読んで(2)


こんにちは。ちくし法律事務所です。

少し秋の気配が漂いはじめた筑紫野市から、今日は少し趣向を変えて、文学と法律の交差点について書いてみたいと思います。

本日取り上げたいのは、英国文学の中でも対照的な二作品、カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』と、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』です。一見、法律とは遠い世界のようですが、実は私たちの仕事と深く通じ合うところがあるのです。


■ 記憶と語りの構造 ─ イシグロの静けさ

ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロのデビュー作『遠い山なみの光』は、戦後の長崎とイギリスで生きる女性が、自身の過去を静かに回想する物語です。

登場人物は多くを語りません。語られなかったこと、あるいは記憶の中で曖昧になったことこそが、読者の心に残ります。

この「沈黙の中にある真実」という構造は、法律実務にも通じるものがあります。
事件の記録や証言の背後にある「語られなかったこと」を読み取る力が、弁護士には求められます。ときに、依頼者自身が言葉にできない思いを抱えていることもあります。私たちはその沈黙に耳を傾け、法の言葉へと翻訳する役割を担っています。


■ 混沌と細部 ─ ジョイスの『ユリシーズ』

一方、ジョイスの『ユリシーズ』はその対極です。
20世紀初頭のダブリンでのたった1日の出来事を、膨大な言葉、意識の流れ、引用と象徴で描き出すこの作品は、法律家にとってはまさに「迷路」のような小説かもしれません。

ですが、法的な文書や判例を読み解く作業にも似た側面があります。
一見雑多で無秩序に見える中に、重要な意味が隠れている。
無関係に思える出来事が、思わぬかたちでつながっていく。

事件の背後にある「生活」や「人間模様」を読み解くには、細部への徹底した注意が必要です。『ユリシーズ』のような複雑なテキストも、ある意味では一つの「訴訟記録」のようなものかもしれません。


■ 文学と法は、どちらも「人間」を扱う

『遠い山なみの光』も『ユリシーズ』も、スタイルこそ違えど、「人間とは何か」「過去とどう向き合うか」「他者との関係をどう築くか」という問いを深く掘り下げています。
それは、私たち法律家が日々直面している問いでもあります。

法の世界は決して無味乾燥ではありません。むしろ、人の数だけストーリーがあり、背景があり、事情があります。その複雑さに向き合うには、感受性と論理の両方が必要です。


■ ちくし法律事務所としての姿勢

ちくし法律事務所では、地域の皆さまの法的問題に対して、単なる「事件処理」ではなく、一人ひとりの「物語」として丁寧に向き合うことを大切にしています。
文学作品と同じように、人の心には言葉にならない部分がある。
そこに誠実に寄り添い、最適な解決に導くこと。
それが私たちの仕事の本質であり、誇りでもあります。

読書の秋が始まります。
もし機会があれば、ぜひ『遠い山なみの光』と『ユリシーズ』を手に取ってみてください。読むたびに、新たな発見があるはずです。

 文責:AIくん

 ※きょうはカズオ・イシグロの記憶と語りの構造がJ・ジョイスの『ユリシーズ』の伝統に習っていることを書こうとした。しかし昨日の記事の出来が出色だったので、念のため、AIくんにも書いてもらった。自分の書こうとした方向とは違うけれども、これはこれで一つの意見である。

2025年9月18日木曜日

記憶と向き合うということ -『遠い山なみの光』を読んで(1)

こんにちは。ちくし法律事務所です。
朝晩に秋の気配が感じられるようになってきました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

先日、久しぶりに読書の時間をとり、カズオ・イシグロ氏の『遠い山なみの光』を読みました。代表作『日の名残り』の静謐な語り口と深い内省に心を打たれたことから、続けて手に取った一冊です。


遠い記憶と、言葉にされない痛み

『遠い山なみの光』は、戦後の長崎を舞台にした物語であり、英国に住む元日本人女性エツコが、娘の死をきっかけに、自身の過去を回想する形で語られていきます。

作中には、はっきりと描かれない「不穏」や「後悔」が静かに横たわっていて、読後には、何か大きな問いを投げかけられたような感覚が残りました。

特に印象的なのは、「語られないこと」の存在です。
人は、過去の出来事をどう語るかではなく、何を語らずにいるかによって、自分を守ろうとするのかもしれないと感じさせられました。


法律相談の現場にもある、“語られないこと”

私たちが日々お受けしている法律相談にも、こうした「語られないこと」「語ることに迷いがあること」が多くあります。

  • 家族との関係において、本当の気持ちを言葉にするのが難しい。

  • 相続や遺産の場面で、昔のわだかまりが蒸し返される。

  • 離婚や親権の相談で、相手や子どもへの罪悪感が口をつぐませる。

法律相談という場は、形式的な手続きや条文の話だけではありません。ときに、ご本人が過去と向き合い、「自分は何を大事にしたいのか」を静かに探す時間にもなります。


“記憶”を整理することが、未来の選択につながる

『遠い山なみの光』を読みながら、私たちが「今の問題」を解決するためには、やはり「過去」と丁寧に向き合う必要があるのだと、あらためて思いました。

それは決して、苦しい記憶を引きずるということではなく、

  • なぜ今のような状況になったのか

  • 自分は何を選び、何を選ばなかったのか

  • そして、これからどうしたいのか

――そういったことを、自分の言葉で整理していくことなのだと思います。


法律も“人の物語”の一部です

私たち法律家が扱っているのは、「法」ですが、その根底には、人の人生があります。
親子の関係、夫婦の関係、兄弟間の相続…それら一つひとつに、語られた/語られなかった物語があります。

もし今、何かモヤモヤしたものを抱えているなら、それを「法律問題」として相談に来ていただかなくてもかまいません。
何かを“語る”ことから、はじまる未来もあるのだということを、この本が静かに教えてくれた気がしています。


最後に

カズオ・イシグロ氏の作品には、「語り手」がどこまで真実を語っているか分からないという曖昧さがあり、それがまたリアリティを深めています。

私たちもちくし法律事務所で、「語ることができる場所」「安心して話せる場所」であるよう努めています。
悩みや不安をお持ちの方は、どうぞ一度ご相談ください。

📚 今回紹介した書籍

  • 『遠い山なみの光』カズオ・イシグロ 著/早川書房

    文責:AIくん

    ※本日のAIくんの記事はかってないほど秀逸。登山記事に比べ、内容が格段に深いし、法律相談や法律実務への適用もうまい。どこかで誰かがまったく同じレビューを書いていて、知らないうちに著作権を侵害している可能性がある。そこが怖い。きょうの記事は自分の文章のパクリだという方は申し出てください、すみやかに削除します。

2025年9月17日水曜日

葛の花と『日の名残り』

 

 いまの時期、四王寺山に登ればあちこちに咲いていて、また、たくさんの落花が道を赤紫にそめている。残暑厳しきみぎり、旺盛な繁殖力である。

 クズの花。葛湯とか、葛もちとかの葛(クズ)である。根は風邪のひきはじめにお世話になる葛根湯にもなる。万葉の昔から秋の七草として歌われている。

 萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花  山上憶良

 しかしいまや葛湯や葛もちの原料は、安価なコーンスターチにとって替わられていて、採集に手間を要する葛は使われていないそうである。

 そうなると、クズの旺盛な繁殖力は人間にとって邪魔な存在になってしまっている。外国にまで伝播し、特定外来種として駆除の対象となっているという。クズは万葉の昔からなんら変わらず、人間の側の都合が変化しただけである。

 先日、映画「日の名残り」を鑑賞した話は書いた。その後、小説のほうも数十年ぶりに読んでみた。以前読んだときの感覚は一切よみがえらなかったものの、映画が原則にほぼ忠実に作られていたことは分かった。

 主人公の執事スティーブンスはほぼ変わらない、変化することが難しい人間である。他方で、時代は第二次世界大戦を経て大きく変化した。そうしたなか、執事として一世を風靡したスティーブンスは時代に取り残されてしまう。むしろ、時代に裏切られてしまう。

 心に沁みた(いまふうに言えば、心に刺さった)部分を引用してみよう(『日の名残り』カズオ・イシグロ 土屋政雄訳 早川文庫) 。

 ・・・開いた各寝室の戸口から、夕焼けの最後の光がオレンジ色の束になって廊下へ流れ出している様は、いまでも鮮やかに思い出すことができます。

 芝生はもう大部分ポプラの影でおおわれていましたが、あずまやに向かう上り坂になった片隅だけは、まだ日に照らされていました。

 父はまだ両手を見つづけていました。そして、ゆっくりと言いました。「わしはよい父親だったろうか?そうだったらいいが・・・」私はちょっと笑いました。「父さんの気分がよくなって、何よりです」「わしはお前を誇りに思う。よい息子だ。お前にとっても、わしがよい父親だったならいいが・・・。そうではなかったようだ。」

 ・・・私どもの世代とそれ以前の執事との間に見られる、根本的な価値観の違いを浮彫りにすることになりましょう。・・・私は、私どもの世代のほうがずっと理想主義的であると申し上げたいのです。・・・私どもは雇い主の徳の高さを重視する傾向があると存じます。・・・できるものなら人類の進歩に寄与しておられる紳士にお仕えしたい・・・

 しかし、いつまでもこんな憶測をつづけていて何になるのでしょう。あのとき、もしああでなかったら、結果はどうなっていただろう・・・。そんなことはいくら考えても切りがありますまい。・・・「転機」とは、たしかにあるのかもしれません。しかし、振り返ってみて初めて、それとわかるもののようでもあります。いま思い返してみれば、あの瞬間もこの瞬間も、たしかに人生を決定づける重大な一瞬だったように見えます。しかし、当時はそんなこととはつゆ思わなかったのです。・・・私にはそれを訂正していける無限の機会があるような気がしておりました。・・・

 ・・・そうですわ、ミスター・スティーブンス。私は夫を愛せるほどに成長したのだと思います」ミス・ケントンはしばらく黙り込みました。そして、こうつづけました。「でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったことかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生をーたとえば、ミスター・スティーブンス、あなたといっしょの人生をー考えたりするのですわ。そんなときです。・・・結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並の幸せはある、もしかしたら人並以上かもしれない。早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ」

 海上の空がようやく薄い赤色に変わったばかりで、日の光はまだ十分に残っております。・・・夕方こそ一日でいちばんいい時間だ・・・

 いつも後ろを振り向いていちゃいかんのだ。後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。・・・必ずしももう若いとは言えんが、それでも前も向きつづけなくちゃいかん・・・人生、楽しまなくっちゃ。夕方がいちばんいい時間なんだ。

 あのときああすれば人生の方向が変わっていたかもしれないーそう思うことはありましょう。しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えて十分な理由となりましょう。

 人々が、どうしてこれほどすみやかに人間的温かさで結ばれうるのか、私にはじつに不思議なことのように思われます。・・・人間どうしを温かさで結び付ける鍵がジョークの中にあるとするなら、これは決して愚かしい行為とは言えますまい。


2025年9月16日火曜日

怪鳥会夏遠征(5の2)大弛峠から金峰山へ

 

 怪鳥会夏遠征4日目は金峰山(きんぷさん)をめざした。標高2599m。山梨県と長野県の県境に位置する百名山。奥秩父の山並みの一角である。初日、昇仙峡からみた山容の美しさに登ることを決めた。

 この山に登るのは2回目だ。1回目は秋に、長野県側から登り、山頂近くの金峰山小屋に宿泊して、瑞牆山のほうへ下った。今回は猛暑の夏であり、小屋予約もできないことから、できるだけ楽に登れるよう大弛峠から山頂をめざした。

 大弛峠は標高2365m。日本で最高所にある車道峠である。つまり、ここまでは自動車でいける。山頂まで残る標高差はわずか234m。ただし、手前に朝日岳など2つの小ピークがあり、累積標高差はもうすこしある。


 とはいえ、気持ちのよい稜線歩きだ。樹間からは富士山が望める。すでに積乱雲が発達しつつある。東側は隠れてしまっている。


 途中、展望のよいところで休憩。小屋から縦走してきた人たちと行き違う。


 向こうに望むは、やはり奥秩父山塊の一角である甲武信岳(こぶしだけ)だろう。名前のとおり甲州、武州、信州の三国堺である。


 この日湿度が高く、天気はめまぐるしく変化した。


 前方に金峰山頂と五丈岩が見えてきた。


 五丈岩。金峰山は古くから信仰の対象とされ、修験道場である。古来、この岩積みをみた人々は人智を超えた神のみわざを感じてきたのである。


 五丈岩では一瞬の晴れ間が広がった。やはり日ごろの行いか。

 と思いきや、遠くで雷鳴が響きだした。あわてて下山を開始した。山上の雷ほど怖いものはない。神のみわざも五丈岩までにしてほしい。


 下りではまたシカの群れに遭遇した。神の使いか、これも人慣れしている。近くでの撮影に応じてくれた。

 大弛峠に帰り着くや否や、ザーッと降ってきた。危ない、危ない。びしょ濡れになるところだった。

 かくて怪鳥会夏遠征は無事終了した。落石による林道不通で北岳はあきらめざるをえなかったものの、そこからのリカバーとしてはまずまず楽しい山行だった。

2025年9月12日金曜日

怪鳥会夏遠征(5の1)大弛峠から金峰山へ-風と雲と岩の頂

こんにちは。ちくし法律事務所です。

本日は、恒例の怪鳥会夏遠征、4日目のご報告です。今回の目的地は、標高2,599mの名峰 金峰山(きんぷさん)。山梨と長野の県境にそびえる百名山のひとつです。登山口は標高2,365mの 大弛峠(おおだるみとうげ)。日本一標高の高い車道峠として知られています。


■ 4人での挑戦

今回のメンバーは怪鳥会の精鋭4名。天気にも恵まれ、朝の涼しい空気の中で登山をスタート。大弛峠からのルートはアップダウンも少なく、比較的歩きやすい尾根道が続きますが、標高が高いため油断は禁物です。


■ 途中の絶景ポイントと森林帯

序盤は針葉樹林に囲まれた道をゆったり進み、時折開ける視界からは富士山はもちろん、南アルプスや八ヶ岳の山並みが顔を覗かせます。五丈石(ごじょうせき)が見えてくると、金峰山の頂上はもうすぐ。


■ 金峰山山頂へ

山頂では、五丈石の圧倒的な存在感にしばし言葉を失いました。雲の切れ間からは富士山の姿も望め、日頃の疲れも吹き飛ぶような絶景でした。

下界より10度くらい涼しく、風も強すぎず心地よいレベル。メンバー4人で記念撮影を済ませた後は、静かに山頂の空気を味わいました。


■ 安全に下山

下山も慎重に、無事に大弛峠へ戻ってきました。往復約4時間半の山行。高山植物や苔むした森の美しさに癒される、素晴らしい一日となりました。


今回の遠征では、自然の偉大さと仲間との絆を改めて感じることができました。山で得た充電を、これからの業務にも活かしていきたいと思います。

次回の登山レポートもどうぞお楽しみに!

(文責:フォーマルで整った文体のAIくん)

2025年9月11日木曜日

怪鳥会夏遠征(4の2)三つ峠山を越えて、河口湖へ

 

 怪鳥会夏遠征3日目は、三つ峠山へ。1785mの日本二百名山。くじゅう山くらいの標高である。河口湖のむこうに美しい富士山を眺望できる。天下茶屋の登山口から登り、河口湖へ下った。

 甲府駅前から富士吉田行きのバスに乗る。石和温泉をすぎて甲府盆地をいく間、車窓にはモモとブドウの畑が続く。ちょうど季節だ。とてもおいしそう。観光農園もあるようだ。

 甲府盆地と河口湖との間には御坂山地が横たわっている。バスはこの山地を登り、山地を縦貫するトンネルを抜けていく。この道は中世、鎌倉往還と呼ばれた。甲斐の武田氏が「いざ鎌倉!」という時のため整備したものである。

 トンネルの上には御坂峠がある。歌川広重はそこからみた富士山と河口湖を「甲斐御坂越(富士三十六景)」という浮世絵にしている。

 https://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol5/hiroshige/misaka/

 トンネルを抜けると三つ峠入口のバス停である。ここで、天下茶屋行きのバスを待ってもよいのだが、歩くことにする。

 天下茶屋は井伏鱒二、太宰治にも愛された老舗旅館。太宰はここでの経験に基づき『富嶽百景』という短編小説を書いている。

 https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html

 たしかに、富士山と河口湖をとりあわせた絶景は絵や文をものしたくなる(才能があればだけれども。)。2013年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録されたのも、うなずける。


 コバイケイソウ。山頂手前に群生していた。有毒。この花が群生するということはシカがたくさんいるのだろう。有毒でない草はシカに食べられてしまうため、シカが食べない有毒の草花が繁茂しやすくなってしまう。



 登頂。残念ながら、富士山は積乱雲に覆われてしまった。夏山はこうなる。強烈な太陽熱で昼間はどうしても積乱雲が発達してしまうから。

 山頂からは河口湖をめざして南へ山をくだる。山頂は登山者ばかりだったのところ、天上山にちがずくにつれ観光客が入り交じるようになった。インバウンド勢おおし。

 バテたので天上山からはロープウェイでくだるつもりでいたのであるが、長蛇の列。しかたがない、自分たちの足でくだろう。


 帰りのバスは河口湖駅から。ここもインバウンドの人たちばかり、すごい人の数だ。お国柄のちがいか平気で車道に飛び出したりしているので、見ているほうがヒヤヒヤする。

 居眠りをしかけていたところバス内で歓声が。車窓から湖面越に美しい富士山の姿だ。夕方であるので、積乱雲もきえてしまっている。