2025年2月5日水曜日

社会保障制度@顧問会社セミナー(2)朝令暮改・朝三暮四・五公五民

 

 社会保障制度の方法と財源としては、1950年社会保障審議会勧告の定義にあるとおり、保険的方法と直接公の負担(税金)とがある。

 本セミナーを準備しながら、頭のなかを朝令暮改、朝三暮四という中国古代の故事に由来する四字成語がなんども去来した。

 朝令暮改とは、命令や政令などが頻繁に変更されて、一定しないこと。朝出した命令が夕方にはもう改められるという意から。▽「朝に令して暮れに改む」と訓読する。出典:漢書 食貨志(goo辞書)。

 社会保障制度は、1973年に「福祉元年」を迎えたものの、その後の経済の低成長、財政逼迫から場当たり的に、かつ、毎年のように改正を重ねてきている。事務所にあった古い教科書はほとんど役に立たない。社会保障法の改廃があまりにも頻繁であることは、どの教科書の筆者も嘆かせている。

 朝三暮四とは、目先の違いにとらわれて、結局は同じ結果であることを理解しないこと。また、言葉巧みに人を欺くこと。転じて、変わりやすく一定しないことや生計の意味でも使われる。出典:列子 黄帝。中国宋の狙公が猿を飼っていたが、その猿たちにトチの実を朝三つ晩四つ与えると言ったら猿たちは怒ったが、朝四つ晩三つにすると言ったら喜んだという故事から(goo辞書)。

 介護保険法は2000年4月スタート。それまで老人介護は老人福祉法による措置(税金による救貧)によっていた。後期高齢者医療制度は2008年の高齢者の医療の確保に関する法律に基づく。こちらもやはりそれまでは高齢者福祉法による措置によっていた。

 もちろん表向きの美しい看板もかかっているのであるが、どちらも根本的には税金だけではまかなえなくなったので、保険的方法への負担を求める対症療法といえる。

 税金という使途不明なものより、介護費・医療費という使途が明確なものになったという利点がないわけではない。しかし、負担増となった保険料分だけ税金が安くなったわけではない。まさに朝三暮四の感をぬぐえない。

 このことをはっきりさせるため、国民負担率という概念がある。国民負担率とは、国民所得に対する税金と社会保障負担の合計額の割合をいう。

 財務省によれば、2024年の国民負担率は45%である。日本史の教科書で、江戸時代の百姓が搾取されていたことを現す言葉として五公五民を習った。百姓は5割の米を年貢として納めさせられていたが、これは税負担として重すぎるだろうというのである。

 もちろん、武士階級がほぼ全部搾取していた江戸時代と違い、介護サービスや医療給付として国民に還元されているところはある。しかし赤字国債の増大など、現在の負担を将来の子や孫に先送りしながらの45%負担である。無借金経営に切り替えれば、どれだけの負担増になるのか考えるだけでも恐ろしい。

 ・・・明るく楽しいブログをめざしているのに、社会保障制度を話題にすると暗くなるなぁ。

2025年2月4日火曜日

社会保障制度@顧問会社セミナー(1)社会保障制度の歴史

 

 法律顧問をおひきうけしている訪問看護ステーションはるかの幹部社員むけにセミナー第4回をおこなった。

 テーマは訪問看護事業の背骨をなす社会保障制度。ただし、タイトルは訪問看護ステーションの乗る「箱船」としての社会保障制度とした。背骨というと頼れる屋台骨という感じだが、水に浮かぶ子の葉のように制度がガタついて毎年のように揺れ動いているからである。

 それは社会保障制度の歴史を概観するだけで明らかである。

 社会保障制度の歴史は、明治以降たかだか150年である。1874年、生活困窮者の救済に関する恤救(じゅうきゅう)規則にはじまる。

 実際のスタートは、第一次世界大戦後の1922年には健康保険法制定から。それからだとわずか100年である。健康保険はいまも、われわれ国民にとってもっとも身近な社会保障制度である。

 1946年制定の日本国憲法は社会権を保障し、まさに社会保障制度にバックボーンが与えられた。

 1950年、社会保障制度審議会勧告は、社会保障制度について、疾病、負傷、分娩、廃疾、死亡、老齢、失業、多子その他困窮の原因に対し、保険的方法又は直接公の負担において経済保障の途を講じ、生活困窮に陥った者に対しては国家扶助によって最低限度を保障するとともに、公衆衛生および社会福祉の向上を図り、もってすべての国民が文化的社会の成員たるに値する生活を営むことができるようにすることであると定義した。

 1961年、国民皆保険が実施され、1973年、老人医療費が無償化されるなど社会保障制度が拡充された。これにより、世界的にも評価される医療保険制度ができあがった。1973年は「福祉元年」と呼ばれる。

 だが皮肉なことに同年、第4次中東戦争を機にオイルショックが発生、経済が低成長となるとともに財政難が生じるようになった。社会的にも少子高齢化が進んだ。1980年ころはじまった新自由主義的な日本をとりまく国際環境にも影響された。

 その結果、社会保障制度は毎年のように、制度の見直しがおこなわれるようになった。それらは1980年代には社会保障制度の再編、1990年代には社会保障制度の構造改革、2012年以降は全世代型社会保障改革と呼ばれている。

 日本は病床数の多さ、入院期間の長さが世界的にみて問題とされ、入院医療を抑制し、在宅医療を推進するようになった。訪問看護事業の推進はその一環である。

 OECD対日審査報告は、医療制度改革に一節をさき、GDP増を上まわる医療費増加、老人医療費対応が鍵であるとした。2008年には高齢者医療確保法が実施され、先に無償化された老人医療も一部有償化された。同年の高齢化率が22%であった。高齢化は世界的にも例をみないスピードで進み、2065年の40%まで進むと見込まれている。

 今年2025年は団塊の世代が後期高齢者となり、医療・介護への需要が増大することが見込まれている。厚労省は、重度な要介護状態となっても住み慣れた地域で自分らしい暮らしを人生の最後まで続けることができるよう、住まい・医療・介護・予防・生活支障が一体的に提供される地域包括ケアシステムの構築を急いでいる。

 これが美しい看板どおりなのか、医療費削減のための弥縫策にすぎないかは、運用の実態しだいだろう。今年から高齢者の仲間入りした者としては、前者であることを祈るばかりである。

2025年2月3日月曜日

ちくし法律事務所40周年パーティ

 


 1日土曜日は、ちくし法律事務所40年記念パーティをおこなった。タイトルは〝 くらしを守り未来を創る 新たな挑戦”。

 わが事務所は1984年創立、当初稲村晴夫弁護士1人、事務局1人でスタートし、いまや弁護士8人、事務局10人の事務所になっている。地域に根差しつつ、国民的課題解決にも尽力していくという理念が、地域のみなさんに支持された結果であろう。

 過去に15周年と25周年のレセプションをおこなった。25周年のときは、顧客や日ごろご支援をいただいている方々など総勢300人を超える人たちに集まっていただいて盛大におこなった。

 その後、弁護士業界の変化もあって30周年と35周年は実施しなかった。そうした折り、昨年本流事務所が20周年をおこなった。その席に当事務所を退所された稲村弁護士も来られていて、ちくし法律事務所も40周年だねという話をなんどもされた。

 そうしたことにも背中を押され、わが事務所も40周年記念パーティを実施することとした。ただし、地域の皆様をご招待することとすれば500人を超える規模になりそうだったので、いつもわれわれを支えてもらっている事務局とそのご家族を招待して内輪のパーティとした。

 福岡市内のおしゃれなお店を借り切り、弁護士とその家族、事務局とその家族45人の参加であった。あたたかくアットホームな会となった。

 井上弁護士による開会宣言ののち、はじまりのおはなし。迫田弁護士が本パーティの趣旨を説明した。
 
 ご招待した稲村弁護士が40周年に寄せてと題するスピーチをおこない、乾杯した。

 そのあとは、佐々木事務局長のスピーチとそのファミリーのスピーチ。つづいて、次長の柴田ファミリーのスピーチ、以下、もと事務局だった原さん、行田さんとスピーチは続いた。

 みな、わが事務所がアット・ホームな雰囲気でよい事務所であると、(お世辞半分であろうが)ユーモアたっぷりに誉めてくれた。ありがとうございます。

 弁護士業界にはあまた法律事務所が存在する。そのなかで、わが事務所はもっとも事務局を頼りにし、事務局を大事にしている事務所である(と、少なくともわれわれ弁護士サイドは考えている。)。

 日ごろ、事務局も家族にどんな仕事をしているのか、どんな人たちと活動をしているのかを意外と伝えられていない。参加されたご家族は、各人のスピーチを聞くなかで、そうした点についてよく理解できたようだった。

 わが孫も1人参加した。日ごろからあまり泣かず、機嫌のよいことの多い子ではある。この日は終始にこやかであったことにくわえ、しよっちゅうキャッキャと笑い声をあげていた。いまだ1歳になったばかりで言葉もしゃべれないのであるが、じぃじがとても楽しい人たちと楽しい会に参加していることは敏感にさとったようである。

 わが事務所の来しかた、到達点、そして今後どう進んでいくべきか各自考えることができたと思う。情勢は簡単ではないだろうが、難局にあたる結束を確認できたことは何よりの成果だった。

2025年2月2日日曜日

春日市黒塗り行政を正す訴訟 その後・・・

「国民が情報を持たず、またそれを獲得する手段を持たぬ国民の政治は、道化芝居の序幕か悲劇の序幕であり、或いはその双方以外の何ものでもない。」


先日(1月30日)、森友学園に関する財務省の決算文書の改ざんに関連する文書開示の裁判で、大阪高裁は、文書の存否さえ明らかにせず不開示とした国の決定の違法性を認めた。情報の公開は民主主義の基盤である。


ところで、先日このブログでも浦田弁護士が紹介していた春日市の情報公開訴訟。福岡地裁が春日市に対して情報非開示決定の取消しを命じた判決は、春日市の控訴なく確定した。訴訟の概要は、浦田弁護士のブログを参照されたい。

ちくし法律事務所ブログ: 春日市黒塗り行政を正す訴訟(勝訴)情報公開請求訴訟


確定からまもなく1か月になる。が、いっこうに春日市からの情報公開はない。原告本人に改めて通知し直すそうだ。


以前、当事務所が太宰府市に対して情報公開請求訴訟をした際は、福岡地裁の判決を受けて、控訴期限内である9日後には市長が会見。すみやかに文書が開示された。

令和4年4月8日楠田市長臨時記者会見 - 福岡県太宰府市公式ホームページ


自治体によって、かくも対応が違うものなのか。


聞くところによると、春日市は、今回の判決について、市がすでに取り組んでいる情報公開の方向性と実態に即した司法判断がなされた、と市議会に報告したそうだ。


はて?


今回の訴訟は、春日市の指定管理者の令和3年度収支報告書と令和4年度の収支計画書の支出項目の内訳の開示を求めるもの。ただ、春日市は、令和4年度収支報告書以降の分については、判決を待たずに情報を開示する運用に切り替えていた。上記の報告は、どうやらこのことを言っているらしい。


はて?


もとはといえば、令和2年度の収支計画書までは、黒塗りなど一切なかった。それを黒塗りに切り替えたのが違法だと提訴されたのが今回の裁判である。春日市の運用は、市政の前進ではない。3歩下がって2歩進んだだけなのだ。それに輪をかけて、確定判決に従った情報公開の対応のこの遅さである。


冒頭の言は、第4代アメリカ合衆国大統領のジェームズ・マディソンのものだそうだ。

確定判決後の春日市の対応が、春日市の道化芝居か、春日市民の悲劇の序幕にならないことを祈るほかあるまい。


富永


 


2025年1月31日金曜日

『ゲーテはすべてを言った』鈴木結生著・朝日新聞社刊

 

 今週は、早朝から飯塚で破産債権者集会があったり、顧問会社むけのセミナーをやったりして、あまりブログが書けなかった。楽しみにされているファンのみなさま、申しわけありません(そんな人いないかもしれないけれど)。ではいきなりですが、むすびの投稿。

 15日第172回芥川賞に鈴木結生さんの『ゲーテはすべてを言った』が選ばれた。鈴木さんは西南学院大学の現役院生ということで、地元ニュースで何度もとりあげられた。

 すわと思って書店に行くけれども、なかなか福岡まで増刷本がまわってこない。受賞を受けて増刷をかけ、大消費地から平積みにされていくのだからしょうがない。

 21日(火)、ジュンク堂の外商さんに尋ねるも、外商まで廻ってくるのには時間がかかるという。

 27日(月)、新天町にある2書店をまわったが、店頭での発見にはいたらなかった。

 28日(火)、朝から久留米で遺言書の検認事件があった。その帰りにあまり期待はしていなかったが念のため、西鉄久留米駅の「ブックセンタークエスト」にクエスト(探求)してみると、なんと平積みにされていた。わーい。

 いっきに読んだ。久留米からの帰りはロータリークラブの職場訪問例会で、筑紫ガスの石崎工場を見学することになっていた。朝倉街道駅で西鉄電車を下車しなければならないところ、乗り過ごしてしまい二日市駅まで行ったしまった。例会終了後も、二日市駅でおりそこなうところだった。

 『ゲーテはすべてを言った』はAI要約によると、ドイツの文豪ゲーテの研究者である主人公が、自分の知らないゲーテの言葉と出会い、その原典を探し求める物語。ドラゴンクエストならぬ、ブッククエストの物語である。 

 著者の該博な知識に驚いた。聖書にはじまる人類の知の花々をアレンジして統合的に語る色彩感覚・造形感覚に幻惑された(カバーのイラスト参照)。20代の大学院生がこれを書いたことに羨望を覚えた。

 検索してみると、福岡の大学で、九大や福大は芥川賞や直木賞作家を輩出していないようだ。それに対し、西南大学では、鈴木さんを含め4人が受賞。葉室麟さん(12年直木賞)、東山彰良さん(15年直木賞)、沼田真佑さん(17年芥川賞)。これにも羨望を覚えた。

 オビにあるとおり「ゲーテ学者が侵した、越えてはならなかった一線・・・。」というのがクライマックス。はたしてクエストの対象となったゲーテの言葉は発見されるのか。研究者はどこまで語ってよいのか。

 すべては言ってないけれども、これくらいで。

2025年1月28日火曜日

白銀の八ヶ岳・年末年始の旅(5)諏訪大社4社詣で・後半

 

 上社前宮からは30分ほど歩いてJR茅野駅へ。中央本線で下諏訪駅まで移動。上諏訪、下諏訪とも温泉が豊富。その理由はのちほど。

 下諏訪駅から15分ほど歩けば下社秋宮である。 


 諏訪大社の神紋は梶(カジ)の葉木。下社は根が5つ、上社は4つ。

 梶の木はコウゾの仲間。樹皮は繊維がつよく和紙の原料になる。古代から神にささげる神木として尊ばれてきた。


 秋宮の前を旧中山道が通っている。大社のおとなりには下諏訪宿本陣岩波家がある。芭蕉の旅のうち『野ざらし紀行』は、塩尻から江戸へ帰っているので、ここから甲州街道へ向かったのかもしれない。


 秋宮から歩いて20分ほどで春宮。途中、南に諏訪湖を望むことができた。

 諏訪湖は、フォッサマグナの西端=糸魚川静岡構造線と中央構造線がクロスするジオスポットである。中央構造線の北側は太古、東からプレートの圧力を受け、西側にズレている。最近ではこれが諏訪湖誕生の理由であるとされている。


 水分とともにプレートが沈み込むところにマグマが発生し、これにより温められた地中の水分が断層から地上に吹き出てきたものが温泉なのだから、このあたりに温泉が多いのは当然である。


 先の運転手さんの奨めにしたがい、秋宮参拝まえに万治の大仏。秋宮の参道左手奥にある。

 1974年、岡本太郎が訪れ、「世界中歩いているが、こんなに面白いものは見たことがない」と絶賛したという。


 秋宮。韓国の親子がお参りしていた。


 神社の四隅には神木の御柱が建てられている。樹齢150年、17メートルを優に超える選ばれたモミの巨木である。


 上宮あたりのマンホールは縄文推しであったが、ここらあたりはもちろん御柱祭である。

 祭は7年目ごとに行われる。山中から御柱として切り出された樅の大木を16本、四つの社に4本ずつ建てて神木とする。自然のパワーと神と神社のつながりを視覚的に表現する、分かりやすいお祭りだ。

 これで諏訪大社四社詣でをコンプリートし、中央線で甲府へ移動した。翌日は2025年元旦である。元旦のことはすでに書いた。

2025年1月24日金曜日

白銀の八ヶ岳・年末年始の旅(4)諏訪大社4社詣で・前半

 

 12月31日朝である。さあどうしよう。予定では赤岳鉱泉から赤岳に登り、展望荘に宿泊して年を越し、新年初日の出を赤岳山頂で迎える計画であった。しかし、天気予報は登山に不適のC判定。稜線上では26メートルを超える強風が吹き荒れるらしい。

 赤岳に登るには文三郎道コースと地蔵尾根コースがある。こんな強風の日は、吹きっさらしの文三郎道コースは論外だ。地蔵尾根コースは樹林帯が長い。問題は稜線に出る直前のナイフリッジと稜線上の移動だ。

 いけそうな気もするが、万一ということもある。ツェルリーナではないけれども《行きたくもあり行きたくもなし》。遭難するリスクは5%程度だろうか。このようなとき、どうすべきだろうか。

 あれこれと総合判断して、山を下りることにした。後ろ髪をひかれる思い。

 当日、北アルプスの爺ヶ岳で大学生3人がテントを強風に吹き飛ばされ遭難したというニュースが流れていた。行かなくて正解か。大学生たちなら同情もかうが、いい年をした大人の行動としては顰蹙ものだろう。

 https://www3.nhk.or.jp/shutoken-news/20250101/1000112687.html


 赤岳鉱泉から登山口である美濃戸口までは北沢をくだる。沢面では面白い氷をみることができた。


 さて帰りの飛行機は明日の夕方である。2日間、時間ができてしまった。どうしよう。

 よし1日目は、諏訪大社めぐりをしよう。九州の人間はあまり知らないだろうが、諏訪大社は4社ある。上社本宮、上社前宮、下社春宮、下社秋宮。諏訪湖の周りに点在している。丸1日時間があるので、せっかくだから全部参拝しよう。


 どこから廻ろうか。グーグルで検索すると、誰もが悩む問題らしい。本宮とあるのでここが大本だろうと、まずは上社本宮へ向かった。

 諏訪大社のお祭りといえば、御柱(おんばしら)祭が有名である。タクシーの運転手さんは祭の責任者をつとめたこともあるという。彼がいうには諏訪地方にはかって10万人の縄文人が暮らしていたという。ふんふん。

 諏訪信仰はユダヤ教と同根である。祝詞など共通するところが多い。・・・えーっ。どこまで信じていいか分からない愉快な話がつづく。

 上社本宮到着。境内は清浄なれど、正月準備でそわそわした感じだった。  


 つぎは上社前宮へ。運転手さんはタクシーを利用してほしそうだったが、歩く。歩いて10分ほどだ。前宮は4社のなかではもっとも地味だった。

 登山スタイルの大学生の2人組に声をかけられた。聞けば彼らも悪天を懸念して山を降り、諏訪大社4社詣での途中らしい。考えることはみな同じだ。安全策を選択した者どうし、奇妙な連帯感がうまれた。 


 水眼の清流。前宮の左手にある。パワースポットである。


 マンホールも縄文推し。八ヶ岳周辺は黒曜石が得られることで有名。ガラス質でナイフやヤジリの原料となる。遠い地方との交易品にもなったらしい。これでシカ・イノシシなども多数獲れることから、多数の縄文遺跡がある。

2025年1月23日木曜日

白銀の八ヶ岳・年末年始の旅(3)硫黄岳を経て赤岳鉱泉まで

 

 12月30日朝7時、本沢温泉を出発。夏沢峠→硫黄岳→赤岩の頭→赤岳鉱泉がきょうのコースである。天気は晴、A判定だが稜線上は20メートルの風が吹くと予報されている。

https://www.google.com/maps/place/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C/@35.9988307,138.3626107,14.75z/data=!4m6!3m5!1s0x601d012318c98c6b:0x25c2b4f04bf0b94!8m2!3d36.1543941!4d137.9218204!16zL20vMDE4amsy?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDEyMS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D


 10分ほどで左手に谷が現れる。この谷をすこし登ったところに例の野湯がある。


 谷をつめたところが硫黄岳だ。往古の噴火で山の北半分が吹っ飛び、南側半分だけの爆裂火口となっている。今日はこの爆裂火口の東(右)側の縁にそって登る。


 樹林帯。先行するカップルに追いついた。


 爆裂火口がぐんぐん近づいてきた。


 昨日午後の降雪が木々にへばりついている。美しい。


 夏沢峠(2432m)、山びこ山荘。夏泊まればモモンガが観察できる。冬期は閉鎖されている。ここからは稜線・森林限界となり、北西の季節風にきびしく吹き付けられることになる。


 北方をのぞむ。佐久平越に浅間山。美しい。


 硫黄岳の北斜面を登っていく。北西(右側)の季節風が強い。あきらめて引き換える登山者もいる。


 振り返れば天狗岳。西天狗と東天狗の双耳峰。女性登山者が情報交換している。「山頂は風がきびしかったですか~。わたしにも登れますか~」とか。


 東の方。諏訪湖の向こうは北アルプス。この快晴のなかでも、槍・穂高はガスのなかだ。


 さらに南に目を転じると(左から)、御嶽山に乗鞍岳。


 山頂2760m。硫黄岳の山頂は平になっている。ガスで視界不良だと、道迷いしやすい。


 誰だろう。写真には写らないが強風。ゴーグルを外せない。背景は中央アルプス。


 北に赤岳と阿弥陀岳。北岳には明日登る予定だ・・・ったのだが。


 爆裂火口上部。爆裂のすさまじさを感じさせる。


 エビの尻尾。左側が北西、風で飛んできた水分がどんどん付着していくため、風上側に成長していく。


 名残おしいが下山開始。


 途中振り返る。


 赤岩の頭2656m。このあたりに森林限界がある。左は阿弥陀岳。その奥は南アルプス。


 赤岩の頭から振り返る。八ヶ岳ブルーが美しい。


 森林限界から樹林帯に入る。


 沢を渡る。赤岳というだけあって、川床が赤い。氷の華が咲いていた。


 赤岳鉱泉小屋。ここもつららがついている。きょうはここまで。さて明日はどうしよう。

2025年1月22日水曜日

白銀の八ヶ岳・年末年始の旅(2)本沢温泉まで

 

 29日(日)朝7時30分、稲子湯温泉を出発。この日の天気は、山登りには向いていないC判定であった。特に昼過ぎから天気が崩れ、風速25メートル以上の強風が吹く予報である。それでも出発する。

 八ヶ岳は北アルプスに比べれば、風雪がすくなく冬でも天候が安定している。日本海で大量の水分を吸収した大陸の寒気が北アルプスの山々に北西の季節風を吹き付け、大量の雪を降らせる。八ヶ岳では、北アルプスを越えてきた寒気や季節風の影響を受けるので、影響は2次的である。

 特に、本日のコースは八ヶ岳の東側を登っていくことになるので、さらに北西の季節風の影響を受けにくい。そのためC判定ではあるが、本沢温泉までは行けると判断した。

https://www.google.com/maps/place/%E9%95%B7%E9%87%8E%E7%9C%8C%E9%95%B7%E9%87%8E%E5%B8%82/@36.0281965,138.3818395,14.75z/data=!4m6!3m5!1s0x601d805de6344499:0xf128a974072892c8!8m2!3d36.6485258!4d138.1950371!16zL20vMGdwNXBy?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MDExNS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D

 日の出。東の空が暖色から寒色に変化していく。冬もあけぼの。やうやうしろくなりゆく、山ぎは少しあかりて・・・。


 登り始めはカラマツの美林である。カラマツは落葉松と書く。針葉樹でありながら唯一落葉するから。針葉樹林でありながら、冬は樹林のなかも明るい。


 サルオガセ。樹の枝等に付着して垂れ下がる糸状・薄衣状の地衣類である。麻裃(おがせ)は紡いだ麻糸を枠にかけて巻き取ったものをいう。

 中国のサルが食べている映像をみたことがあるが、ニホンザルも食べるのだろうか。

 地衣類は、菌類だが、シアノバクテリアなど藻類を共生させることで自活できるようになった。八ヶ岳はコケ類が豊富であるが、コケとは別ものである。

 地衣類は、霧などから直接水分を吸収するため大気汚染に対して敏感。サルオガセがみられるということは、八ヶ岳の空気が清浄である証拠である。


 写真左側はカラマツであるが、右側はシラビソである。シラビソはマツ科モミ属の常緑高木。亜高山帯に生える。

 亜高山帯は山地帯と高山帯の間の植物や動物の垂直分布帯。標高1500~2500m。常緑針葉樹林帯で覆われている。

 登りながら高度を上げ、いままさに山地帯から亜高山帯に入ろうというところである。


 カラマツはみられなくなり、シラビソ林。
 

 下山してきた登山者と離合する。離合は方言。標準語では行き違うだろうか。雪がどんどん深くなってきた。


 きょうの中間点、しらびそ小屋。半分雪に埋まっている。ここに泊まると、森からリスが遊びにやってくることで有名。


 リスは見当たらず。リスは冬眠するんだったかな。シジュウカラが5羽遊びにきていた。200カラだな。屋根にはつらら。



 しらびそ小屋の裏はミドリ池。氷結している。池の真ん中にはお兄さんが絶景にひたっていた。晴れていれば樹林の向こうに天狗岳を望むことができる。


 ふう。ようやく本沢温泉に到着。天候が悪化するまえに到着することができた。きょうはここで宿泊だ。

 本沢温泉は日本最高所にある野湯で有名。ここからさらに10分登ったところにある。厳重装備をしていかないと、湯に向かう途中で遭難するおそれがある。
 
 この日入るべく行ってみた。が、野湯は谷にあり強い寒風がふきすさんでいた。脱衣所はおろか寒風をふせぐ構造物は一切ない。脱衣さえ飛ばされそうだし、低体温症になりそうなので断念。