2024年3月28日木曜日

弁護士の使命(2)

 



 弁護士の使命はなにか?じつは弁護士法に定めがある。

 弁護士は、基本的人権を擁護し、社会正義を実現することを使命とする(1条1項)。

基本的人権の擁護は、天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員の義務でもある。憲法99条はこう定める。

 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

憲法は統治機構の定めも含め基本的人権を擁護することを目的とするから(三権分立の定めも基本的人権擁護の目的と機能がある。)、憲法を擁護するということは基本的人権を擁護するということである。

じつは基本的人権の擁護・保持は、国民の義務である。憲法12条1文はこう定める。

 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によって、これを保持しなければならない。

もっといえば基本的人権の擁護は、国民のみならず人類としての義務でもある。97条はこう定める。

 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

信託とは、大切な財産を信頼できる人に託し、目的に沿って大切な人や自分のために運用・管理してもらうということである。託された人は、善良なる管理者としての義務を負う。

こうして天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員、あるいは、国民は憲法ないし基本的人権を擁護する義務を負っている。弁護士のばあい、さらに義務ではなく、使命であるとされている。

使命とは、与えられた重大な任務。自分に課せられた尊いつとめ。天職の意味である。ミッションの訳語であるから、天与の任務という意味合いもある。

民事事件や刑事事件における弁護士の活動は、一言でいうと、依頼人の権利を守るという仕事である。しかし一般の権利と基本的人権とは意味が異なる。

人権は、国家権力から自由を意味する。したがって、国会や政府が国民の権利を侵害する曲面で意味を持つものである。ただ単に弁護士として仕事をしているだけでは、基本的人権を擁護する活動をしているとはいえない。

残念ながら、必ずしもすべての弁護士が基本的人権を擁護する活動をおこなっているわけではない。一般の弁護士が一般事件のみを引き受け、たいへんな労力な割にはペイしない人権擁護活動を敬遠するのは理由のないことではない。

であるからこそ、弁護士法は、第1条で基本的人権の擁護を弁護士の使命であると定めたのである。                                  つづく

2024年3月27日水曜日

弁護士の使命(1)

 

 ことし、わが事務所に新進気鋭の岡田弁護士が参画した。これで8人の弁護士、うち3人が女性という構成(37.5%)になった。まだまだというご意見もあろうが、社会一般、弁護士会全体の女性参画割合に比しまずまずの達成だろうと思う。

いまいろんな研修を受けてもらっている。思えばむかしは荒っぽかった。新人弁護士の研修制度など存在しなかった。「事件に飛び込んで自分で覚えろ」という感じ。

時代状況もある。ある先輩など、初めての仕事が2,000人の人々に対して演説をすることだったらしい。

自分が入ったころ、唯ひとりの先輩弁護士である稲村弁護士は事務所にいなかった。長崎じん肺訴訟をはじめとする数々の困難訴訟に取り組み、全国各地を飛び回っていたからである。

当職がはじめて手がけた事件は、近所の工務店の社長さんから依頼を受けた動産執行事件だった。動産執行とは建築資材等の差押えだ。

ご多分にもれず稲村弁護士は事務所にいない。事件処理の方法ほか、費用をいくらにするのかなどまったく五里霧中であった。弁護士費用を告げたときには、声がふるえた気がした。

それに比し、いまは研修制度が手厚く存在する。まずもって弁護士会が新人弁護士に対して多くの講座を用意している。わが事務所としても、多数のメニューを用意している。

まずすべての事件について、先輩弁護士と共同受任する。そして相談の仕方、受任の仕方、職務の遂行の仕方について、個別具体的な事件を通じて学ぶことになっている。On the Job Training(OJT)だ。そして少しずつ自立・自律をはかることになる。

あわせて座学も用意している。7人の先輩弁護士からのマンツーマン教育だ。4人の若い弁護士からは、交通事故事件や離婚事件のノウハウの話がなされる。こうして秘伝の必殺技も伝授される(かもしれない)。

残る3人の先輩弁護士からなされるのは、もうすこし高尚な話だ(いや、そのはずだ)。当職に振られた話題は「大規模集団訴訟について」。このことはすなわち「弁護士の使命」について話すということだ。

                                  つづく

2024年3月26日火曜日

NHK Eテレ・高校国語をみたら

 

 先週の木、金は青森の残雪の山めぐりにでかけていたため、ブログが書けなかった。きのう書けなかったのは、ひとつはその間にたまった仕事が山積みになっていたから。

もうひとつの理由は、NHK eテレ・高校国語をみたから。ビデオ・デッキの調子が1か月ほど悪かった。最初はアンテナの不具合かと思った。

しかしリアル視聴はあまり問題がない。これはビデオ・デッキの問題だ。そこで買い換えた。そうすると録画容量がぐんと増えた。それまでは「にっぽん百名山」ほかの山番組、駅ピアノ・街ピアノなどの録画だけで容量いっぱいいっぱいだった。

録画容量が増えたため、それまでは見送っていた番組も録画をしはじめた。NHK Eテレ・高校国語もそうした番組のひとつだ。

高校国語の内容は、むかしとだいぶちがう。目新しいのは情報の収集・整理・発表の方法、集団的意見の交換・集約の仕方、ディベートの仕方など。

ビジネス直結ノウハウというべきか、情報化社会の生き方ノウハウというべきか、民主主義の必須ノウハウというべきか、そのようなメニューが並んでいる。

むかしのような小説の鑑賞のようなものはない(ようだ)。しかし、エッセイの読み方・書き方というのはあった。書き方のコツなどはブログを書いている身としてはなるほどなるほどだった。

いろいろあるが、まずは冒頭の工夫の大切さ。ここでぐっと読者をつかまなければならない。はたして本ブログの書き出しは適切か。

いまエッセイといえば、ファーストサマーウイカである。これでピントきた人には「光る君へ」ファンの称号を差し上げよう。

ファーストサマーウイカはいま「光る君へ」で清少納言をやっている。あの感じで『枕草子』を書きましたといわれるとピンとこない。ほんとうに彼女が書いたのだろうか。ま、それをいえば吉高由里子が『源氏物語』を書いたといわれても・・・

・・・などとつらつら考えていたことも、きのうのブログを書き損ねた理由である。そんなことを考えていたら、とてもブログなど書けない。あまり高望みをするのはよそう。きょうはそう思って、いつもどおりの書出しである。

2024年3月19日火曜日

九千部山(2)深い森と僧侶の心とリップ・ヴァン・ウィンクル

 




 高速鳥栖ICをおり、佐賀県道31号を西へ。JR肥前麓駅あたりをすぎ、立石バス停の分岐を右へ入る。沼川河川プール駐車場で車をおり、御手洗の滝をめざして歩きはじめる。

ウグイスが鳴いている。とても上手だ。人間とおなじく上手い下手がいる。とくにここは谷間のエコーが効いている。その効果をわかっていて、ここで鳴いているのだろうか。

川沿いに遡上すると、尾根にとりつく。その先は鳥の鳴き声も聞こえず、深い森がひろがっている。

他の登山者とも出会わない。ほんとうに静かな山旅だ。気候もさいてき。登っていても汗をかかず、ときおり涼しい風が吹いている。

深い森の奥に、志半ばで美女の幻に負けた僧侶の心も隠されているだろうか。

石谷山に着いた。ここらあたりはアカガシの森が広がっている。樹齢100~200年とおぼしき大木もちらほらする。アカガシは常緑樹で、緑の葉をしげらせている。

さらに進むと、落葉した高木があらわれる。ブナ、ナラ、リョウブなどの落葉樹。九千部の山頂付近は、ほぼ落葉樹におおわれ、いまはまだ葉を落としたまま。

花の季節も未だ。藪ツバキが咲いているぐらい。あちこちでミヤマシキミが赤い実をつけていた。ある株は実とともに花のつぼみもかかえていた。山の春もそこまで来ている。

帰りにアカガシの大木の根元で休憩した。静か。寝てしまいそうだ。みなに置き去りにされて、目覚めると20年経っていたということになりそう(リップ・ヴァン・ウィンクル)。

2024年3月18日月曜日

九千部山(1)名前の由来と深草の少将のみた幻

 
山頂から。テレビ塔ごしに背振山

 土曜は九千部山(845.7m)に登った。怪鳥会のメンバー4人で。基山のサービスエリアで合流して、登山口をめざした。

参加者のひとりMさんがのっけから変な夢をみたと、昨夜の夢を紹介した(夢の内容は省略)。悪夢は延々と繰り返しみるが、良夢は実現寸前に目が覚めてしまう。不思議だ。

九千部山は福岡県那珂川市と佐賀県鳥栖市にまたがる背振山系の山。筑紫野市からみると南方、基山の奥に鎮座している。

なぜ、九千部山と呼ばれているのか。アジア美術館「大シルクロード展」敦煌における法華経発掘ところで紹介した(http://blog.chikushi-lo.jp/2024/03/blog-post_11.html)が、再説する。

山名の由来については、ある民話がある。そして紹介者によって微妙なニュアンスの違いがある。ウィキペディアによるとこうだ。

むかし天暦5年(951年)頃、隆信沙門という若い僧侶が台風と病気に苦しむ村人のため山頂で法華経を49日間で一万部(1万回)読誦する決心で山に籠もった。

あと7日目という夜に白蛇に遭遇、その後美しい女の幻に誘惑され負けてしまう。

満願の50日に僧侶を探しに来た村人は、谷の岩陰で骸となった僧侶を発見する。こうして読誦が「九千部」に留まったため、これが山名となったという。

僧侶が白蛇に遭ったり、美女の幻をみたり、そのときがちょうど九千部読誦したときだったなどの事実は、いったい誰が目撃したり、聴取したりしたのだろうか。反対尋問の種は尽きないが、この話は江戸時代に書かれた「歴代鎮西史」に記述があるようだ。

このままでは青少年の教育上よくないと判断されたのだろうか、僧侶が女の幻に誘惑され負けてしまったくだりが省略されてしまっているバージョンもある。

 https://sagamichi.jp/kusenbu/

人生の最も大切な、あるいは、味わいのある部分を省略してしまうのはどうなんだろう。

山頂部の案内によると、僧侶は極度の疲労の結果、白蛇や美女の幻覚をみたのだという説明になっている。これが最も説得力があると思う。山の遭難体験記を読むと、遭難して山中で一週間も生存していると、幻覚・幻聴の症状があらわれるというから。

ところで、この話は深草の少将の「百夜通い」に似ている。少将は小野小町を愛した。小町は「私のもとへ百日間通いつづけたら結婚してもいい」と言った。少将は九十九夜通ったが、最終日は雪が降り、雪山(伏見山のあたり)で遭難したため叶わなかったという。

深草の少将は凍死寸前、小町と結ばれる幻をみただろうか(いまどきなので少将は柄本佑、小町は吉高由里子で、イメージを思い浮かべてくだされ)。

われわれの良夢が実現寸前で目が覚めてしまい叶わないのは、深草の少将のたたりかもしれない。

2024年3月15日金曜日

同性婚訴訟・札幌高裁違憲判決

 

 わが事務所の富永弁護士らが取り組んでいる、いわゆる同性婚訴訟で、札幌高等裁判所は、同性婚を認めていない民法は違憲であるとする判決を言い渡した。

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6494719?fbclid=IwAR3lZBY8jBKcFViQIvmYjO9k0cdEU2q_ijeXV9GIpIHrI3ddRLG_59l-7IY

憲法14条は平等権を、憲法24条は家族生活における個人の尊厳と両性の平等を定めている。国会でつくられた法律が憲法に違反していれば違憲となる。

違憲にも2種類ある。法令違憲と適用違憲である。法律そのものが違憲なのが前者、法律は違憲ではないけれどもその運用が違憲なのが後者である。

三権分立の理念から裁判所はできるだけ国会の判断が間違っていると判断することに慎重である。したがって、適用違憲はいいやすいが法令違憲はなかなか言えない。

民法が違憲であるというのは法令違憲である。しかも民法は諸法の王たる基本法である。それが違憲であるというのであるからすごい判決だ。関係者の勇気と努力に敬意を表したい。

同性婚訴訟は6地方で争われている。ニュアンスは異なるものの、違憲の流れは止められないようだ。

一般に最高裁は保守的で、進歩的な判決を覆す傾向がある。しかしどうもこの分野では違うようだ。

最近も犯罪被害者の同性パートナーに国の給付金支給を認めなかった行政判断を是認した高裁判決について弁論を開いた。弁論を開くということは高裁の判断を見直すということだ。

https://www3.nhk.or.jp/news/html/20240305/k10014379961000.html

国会ではなお古い家族観にとらわれている議員も多い。同性婚を認める立法化への抵抗はなお多いだろうが、時間の問題だろう。

※写真と本文は関係ありません。国会や最高裁の固い扉・重い扉のイメージ映像です。

2024年3月14日木曜日

立花宗茂と高橋紹運

 
岩屋城跡から太宰府市街をのぞむ

 御花は柳川立花家の別邸。松濤館ロビーには立花宗茂の甲冑が飾られていた。

立花宗茂は太宰府とかかわりがある。四王寺山には岩屋城跡がある。観世音寺の裏からひと登り。

岩屋城跡は、戦国末(1584年)における島津と大友の戦い。大友の背後には全国制覇をめざす豊臣秀吉がいた。

島津義久は九州制覇をめざし、2万~5万(諸説あり)の大軍を擁して北上した。対する大友がたの武将は高橋紹運。わずか763人の手勢で岩屋城に籠城した。

高橋勢は勇猛果敢に防戦し、最終的には玉砕したものの、島津勢はここで足止めをくらった。豊臣勢20万が九州に来訪し、涙を飲んで薩摩に引き返すことになった。

岩屋城跡からすこし下ると紹運の墓がある。高橋紹運の長子が柳川藩の初代当主である立花宗茂である。

岩屋城の戦いの時、立花宗茂は立花山城を守っていた。岩屋城跡からしばらく登ると、四王寺山の稜線につく。稜線を反時計まわりに歩くと遠見台につく。

遠見台からは東方向・香椎方面への展望が開ける。香椎市街の背後には立花山がひかえている。立花山城があったところだ。

大友、島津、豊臣、徳川と世の勢力図は変転した。しかし高橋・立花家は、主家を見誤ることなく幕末まで存続した。武にすぐれていただけでなく、情勢を見極める眼力も兼ねそなえていたのだろう。