越中・越後の国境、境川。そこは人界と魔界の境でもある。そこから先は山姥が出現する異界をなしている。
越中から越後へ、上路を行かないで、海沿いに下路を行くと市振(いちぶり)がある(市振の先は昨年11月に訪ねた親不知である)。『おくのほそ道』の市振の段を引用しよう。芭蕉は逆に越後から越中へむかっている。
今日は親知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れはべれば、枕引き寄せて寝たるに、一間隔てて面のかたに、若き女の声、ふたりばかりと聞こゆ、年老いたる男の声も交じりて物語するを聞けば、越後の国新潟といふ所の遊女なりし・・・。
芭蕉に同道した曽良の旅日記によれば、市振の宿でこのような遊女との出会いはなかったようである。つまり、この部分は芭蕉の創作である。
芭蕉も坂東眞砂子も意識していなかったかもしれないが、越後の山中、遊女、山姥が共鳴しあっている。国はずれ、国ざかいは人の支配が行き届かず、遊女や山姥といったマージナルな存在が行きかう世界である。
新海誠監督のアニメ映画『君の名は。』。東京四谷の男子高校生と飛騨の山深い糸守町の女子高校生が入れ替わることから物語がスタートする。2人がそれぞれ生きている世界には3年のタイムラグがあるため直接会って話ができない。ひかれあいながら、もどかしい・・・
しかし終盤のたそがれ(誰ぞ彼、糸守の方言でカタワレ)時、ご神体の境界域をなす外輪山で、2人は互いの姿が見え、入れ替わりが元に戻り、はじめて時を超えて会話をすることができた!とても印象深いシーン。超常現象・奇跡はマージナルな時間、マージナルな場所で起きるのである。
板東版『山姥』のワキ主人公である凉之助。東京から招かれ、不毛の肉体を持て余す美貌の役者である。凉之助はふたなり。ふたなりとは、一つのものが二つの形状をもつことをいい、特に一人で男性と女性の性器を兼ねそなえた、いわゆる両性具有をさす。
その凉之助と、雪に閉ざされた村の暮らしに倦いている地主の嫁・てる。二人の密通が序曲となり、悲劇の幕が開いたー。しかも2人の関係は実は・・・。
謡曲の山姥は、妄執を逃れられない苦しさを訴える一方で「善悪不二」「邪正一如」「煩悩即菩提」といった禅の思想(仏法の深淵な哲理)を説いた。この主題も坂東眞砂子の『山姥』は取り込んでいる。
板東版『山姥』は、男女の入れ替わり、両性具有、人即山姥。男女不二、男女一如、煩悩即菩提の世界である。
