2025年12月26日金曜日

ちくし法律事務所2025仕事納め

 


 きょうはわが事務所2025の仕事納めである。午前中は大掃除、午後はリクリエーションをして忘年会である。例年、大掃除のあとに締めの会議を行うが、ことしはスケジュールの都合で、昨夕おこなった。

 全体の年間相談数は1336件、昨年より9.3%増だった。

 相談内容としては、交通事故78件(13%増)、相続198件(21%増)、損害賠償87件、離婚147件、労働事件61件(56%増)、負債整理375件(12%増)、債権回収22件(22%増)、不動産・賃貸借・請負建築141件、会社法務26件、その他190件である。

 相談者の紹介もとは、再来554人、事務所HP154人、個人119人、隣接士業51人、法テラス65人、生協51人、顧問先46件などとなっている。

 相談者の居住地域は、筑紫野市376人、太宰府市203人、春日市94人、大野城市85人、那珂川市33人、福岡市136人、甘木朝倉市87人、糟屋郡43人などとなっている。

 地域に根ざして40年間がんばってきた現れ。弁護士8人、事務局10人で結束し、地域のみなさまの信頼・信用をかちえてきた結果である。

 このうち当職が担当した相談件数が262件。受任数96件、受任率は37%だった。弁護士になって40年なので、単純計算だとこれまでに1万件の相談を受け、4000件ちかくの事件の解決をはかってきたことになる。

 うまくいった事件もあるし、うまくいかなかった事件もある。あたりまえだ。70%程度勝ちそうな事件が勝ち筋、70%程度負けそうな事件は負け筋である。勝ち筋側が相談にくるか、負け筋側が相談にくるかは偶然の産物である。難しい事件、難しい依頼者もいれば、易しい事件、優しい依頼者もいる。活動実績を確認しながら、ことし一年の苦楽をあらためて思い浮かべた。
 
 われわれにとっても、みなさまにとっても、来年もよい年でありますように。

2025年12月25日木曜日

六本松界隈今昔(4)受験のころ

 

 現在、博多駅、天神南から六本松をとおり西区橋本まで、福岡市営地下鉄七隈線が走っている。教養部時代、地下鉄が通じていなかったため、博多駅から六本松まではバスだった。

 高校を卒業するまで大阪で育ったので、福岡の地理には疎かった。受験の際、博多駅バスセンターの券売のおばちゃんに「六本木まで!」と注文したら、「そんなバス停ありません!」と返された。・・・そりゃ、「六本松まで!」の言い間違いに決まっているやろ!

 途中、渡辺通り一丁目から六本松までは、いわゆる城南線という道路である。1978年当時、七隈線の工事のため(地下を掘り進めば交通への影響は少ない。が、予算を節約する都合で露天掘りである。)、片側交通だった。そのため大渋滞だった。いまの福大生の交通利便性はわれわれ先人の苦難のうえに成り立っているのだ。

 試験には、「久留米絣は井上伝女がはじめました。」の英作文や、「筑前はいまの何県でしょう?」という地元の受験生に有利な問題が複数出題された。

 久留米絣をはじめたのは井上伝という女性だということは後に知った。筑前はいまの佐賀県だと回答した。

 受験のときはJR鹿児島線の東郷駅にある親戚の家から通った。試験の帰りに博多駅から普通電車に乗ったら途中、筑前新宮という駅があった。「あれま、落ちたな。」と思った。

2025年12月24日水曜日

六本松界隈今昔(3)教養部

 

 教養部の跡地は科学館、JRマンション、裁判所になってしまっているのだが、この像は当時のまま残されている(場所は校舎前から六本松交差点前に移されている)。

 青陵乱舞の像という。旧制福岡高等学校の光栄を偲び、同校同窓会『青陵会』が寄贈したものである。

 旧制福高は1921年(大正10年)創立。当時、六本松は見わたす限りの田園地帯であったという。つまり、六本松の発展は、最初から学生街としての発展であった。

 1949年(昭和24年)に新制大学制度が実施され、旧制福高は九州大学に包括され、九州大学第一分校となった。

 1963年(昭和38年)4月、第一分校は廃止され、教養部となり、一般教養を教える場となった。

 昭和30年代後半~40年代は、高度経済成長に伴う経済復興が顕著となる一方、古い大学制度への反発や反戦などの機運が高まり、学生運動が活発におこなわれた。

 1970年代以降、かつて重視された人間形成や人格陶冶のための教養は、大学の大衆化、新中間層の出現、価値観の多様化、専門化の進展などにより、その規範的地位を失い、形骸化・希薄化が進んだ(竹内洋著『教養主義の没落』)。

 そして2009年(平成21年)、キャンパスは伊都地区へ移転、その歴史に幕をおろした。

 教養部もそれぞれの時代の流れと無縁ではなく、時代の要請により変貌をとげている。

 われわれは教養主義が没落しつつあった1978年(昭和53年)に入学し、1984年(昭和59年)に卒業した。医学部でもないのに、6年間もお世話になった。

 当時、学生運動はごく一部の人たちのものとなり、授業にはでないで部室でたむろし、空き教室でドストエフスキーやバルザックの大著を片端から読破する日々だった。

 いまや教養主義どころか、読書人口とともに本屋も急減してしまい、寂しいかぎりである。

2025年12月23日火曜日

六本松界隈今昔(2)大濠公園ランニングコース

 

 部活のランニングコース、いつもは教養部から南へ向けて走っていた。しかしいつもおなじだと飽きがくると思われたのか、ときどき北へ向かって走ることもあった。北には大濠公園がある。

 きょうはそちらへ散歩してみよう。


 六本松駅前交差点。北から南を望む。左手が科学館、中央が裁判所、右手がJRマンションである。


 おなじく六本松駅前交差点。南から北を望む。右手が天神、博多駅方面である。


  この細い路は草香江1114号線というらしい。六本松駅前交差点から大濠公園まで一本道である。

 市道博多駅草ヶ江線を渡ったところ。 草香江といってみたり草ヶ江といってみたり、表記がややこしい。


 学生時代は右手のほうに小さな本屋があった。ちいさな本屋であるのに、やはり学生街、井上究一郎訳の『失われた時を求めて』全10巻セット(単行本の)を売っていた。たしか1万7000円くらいだったか。

 文学部だがおなじ部活のIからあおられて、あやうく買いそうになった。買っていたら、2か月くらい山に登れない窮乏生活を強いられただろう。

 その本屋もいまはもうない。まるであべ静江かガロの歌の歌詞のようだ。


 六本松1106号線というのを渡る。1114号線だとか1106号線だとか名付けなければならないほど路がたくさんあるとも思えないのだが。管理の都合なのだろう。


 国体道路をわたる。こんなところも国体道路というとは知らなかった。


 国体道路を渡ったところ。きょうもきょうとて、左手の土地を開発している。街の風景がどんどん変わっていく。


 しばらくして大濠公園がみえてきた。もうすこしだ。


 大濠公園だ。平日の昼間だというのに、何人もの人々が走っている。

 当時、われわれは5周とか10周とか走っていた。大濠公園は1周2キロメートルであるから、10キロメートルとか20キロメートルになる。ゆるゆると走っていたのだが、20キロメートルだとハーフマラソンの距離に匹敵する。

 部活では福岡市内の大学(西南、福大、福工大、女学院、筑女、福女短など)との親善交流会もやっていた。ここでは他の大学のメンバーと組んでリレー大会をしたのが思い出である。

 誰が一番はじめを走るかでモメた。一番はじめは順位が明瞭なので、みなイヤなのだ。先輩の指示で走ることになった。意外なことに結果はまずまずで、面目をほどこすことができた(うちの大学、走りは遅いだろうという大方の予想を裏切ることができたので)。

 その日はアルバイトを入れてしまっていたので、懇親会は欠席。それだけが心残りである。

2025年12月22日月曜日

六本松界隈今昔(1)谷から山の上へのランニングコース

 

 六本松界隈。学生時代、教養部があったところ。いまは、科学館、JRマンション、裁判所、検察庁、弁護士会館になっている。

 50年ちかく経って、ふたたびこの地に出入りするようになるとは思わなかった。


 地下鉄六本松駅を背に、もと教養部があったほうを望む。正面奥が裁判所、左手が検察庁、右手がJRマンションである。マンションのあたりに部活の部室があった。


 裁判所の裏あたり。このあたりに亭々舎があった。クラスや部活のコンパはここでやっていた。外でやるよりずっと安上がり。


 裁判所裏口。教養部の裏口もここらあたりにあった。部活のランニングコースの出発点である。裁判がはじまるまでの間、ちょっと散策してみよう。


 教養部時代、毎日のように走っていたコースであるから、すぐにも分かりそうなものだが、そう簡単ではない。われわれの記憶もさることながら、六本松界隈がおおきく変貌してしまっているから。

 裏門をでるとすぐにセブンがある。もちろん、昔はなかった。むかしのコースを歩いてみようとすると、しょっぱなから違和感にとらわれる。



 むかしは先輩や同輩の背中をみて、あるいは、路面をみつめて走っていたのだろう。あらためてここらを走っていたのかと問われると途端に自信がない。

 当時は知らなかったが、この路は谷916号線というようだ。狭い道を東へ走っていた。


 南公園・花見公園の長い坂をめざす。南公園は山の上にあるので、道行きはすこしずつ登りになっている。


 左手奥は谷緑地である。谷という地名が、南公園の山手の谷側という地形を示している。


 奥に南公園の山がみえてきた。


 坂が急になる。


 最後の急坂。階段になっている。


 難所の階段を登り切った。


 桜坂山手どおりがみえてきた。


 桜坂山手どおり。正面右手にその名も「山の上ホテル」がある。動・植物園、花見公園まで、あとわずかだ。

 ・・・なのだが、時間切れである。きょうはここで引き返そう。

2025年12月19日金曜日

福岡市動・植物園(3)花見公園の長い階段

 




 動物園の正門をでて右に行くと花見公園があり、植物園の入口方面にむけて長い階段がある。ついでにそこへ行ってみた。そして階段をのぼった。120メートルくらいあるだろう(段数は数えていない)。下から上にのぼるだけで、ふうとなった。

https://www.google.com/maps/place/%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E7%9C%8C%E7%A6%8F%E5%B2%A1%E5%B8%82/@33.5730986,130.383371,17z/data=!4m6!3m5!1s0x3541eda1e9848429:0xf60a729936398783!8m2!3d33.5901838!4d130.4016888!16zL20vMGdxa2Q?entry=ttu&g_ep=EgoyMDI1MTIwOS4wIKXMDSoASAFQAw%3D%3D

 ここは学生時代、部活でトレーニングをしていたところだ。六本松・教養部の裏門を抜けて谷916号線を東へ走る。谷緑地前を通過。

 地図では分かりにくいが、南公園へのぼりになっている。最後のところをぐっとのぼると桜坂山手通りに出る。南公園西展望台前を通過。

 薬院南公園線を左に分け、植物園通りに入る。植物園の入口前を左に行くと、この階段に達する。

 この階段では他の部員とペアを組んで相棒をオンブし、階段を5往復する。歩荷(ボッカ)訓練という。

 不思議なことに、オンブしやすい相棒とオンブしにくい相棒がいる。体重と正比例はしない。シャンとオンブされている相棒は軽く感じる。ダラリとオンブされている相棒は重く感じる。

 歩荷訓練が終わると階段横にある草地で整理体操をして、トレーニング終了である。それをほぼ毎日やっていた。夏遠征のまえなどは、もっと負荷の高いトレーニングをしていた。

 ・・・若いというのはいいことだ。相棒をオンブしてこの階段を5往復もしていたとは信じられない。

 ワンゲルのグループライン(多くが関東在住で、ほとんどのメンバーが卒業以来40年以上ここを訪れていない。)がある。そこにこれらの写真を投稿した。

 「なつかしい。」「以前南公園を訪ねたことがあったが、ここを探しあてられなかった。」「こんなオシャレなところとは知らなかった。」「当時は汗臭い地獄だと思っていた。」「Nはオンブしにくかった。」などなど反響があった。おおむね同感である。

2025年12月18日木曜日

福岡市動・植物園(2)植物園

 

 つづいて植物園へ。この日は動物園だけの予定だった。クマの檻のあたりを歩いていたら、植物園でクリスマスリースづくりのイベントをやると繰り返し放送があった。それなら行ってみようということになった。

 芝生広場。木々は紅葉して芝生は枯れ、秋~冬の粧いである。コローの『モルトフォンテーヌの想い出』を思い浮かべてしまう。

 植物園に行くならやはりマンサクが咲く春先~バラが咲く春である。次々に新しい花が芽吹いて、春がやってきた~と思えるから。


 展望台。クリスマスリースづくりは、この右手の建物で。


 高いところがあれば、のぼってみずにはおれない。展望台にのぼる。芝生広場が一望。


 北を望む。動物園方面。背後は薬院~中央区の街なみだろう。


 東を望む。遠い山なみは香椎の背後にそびえる立花山あたり。展望がきいて、頭のなかのモヤモヤもすかっとする。