2026年1月9日金曜日

年末の山旅(3)千曲川と上田城

 

 別所線で上田駅に戻る。温泉口から南へ5分ほどで千曲川にでる。さきほど別所線でわたった千曲川橋梁が赤く美しい。

 川は五木ひろしの歌にある、あの千曲川である。もうちょっと古くは島崎藤村の『千曲川のスケッチ』に描かれている。

 https://www.aozora.gr.jp/cards/000158/files/1503_14594.html

 日本百名山である甲武信ヶ岳(こぶしがたけ)を源流とする。山は名前のとおり、甲州、武州、信州三国の国境に位置する。当然のこととして分水嶺であり、信州側に降った雨が流れ下り、佐久盆地を経て上田盆地に達する。

 ここからさらに流れ下り、長野市で犀川(さいがわ。上流部は槍ヶ岳に発する梓川)と合流し、新潟県に入って信濃川と名を変え、日本海に注ぐ。地理の授業で習ったとおり、日本一長い川である。





 千曲川と犀川が合流するあたりが、あの川中島である。武田信玄と上杉謙信の死闘がくりひろげられた。

 上田は、戦国時代、NHK大河『真田丸』で描かれたとおり、真田家の所領として名高い。上田の地勢は、甲斐の武田、越後の上杉のほか、北条、徳川という強豪に囲まれていて、どの強豪について生き延びるかという難しい選択を迫られる地域であった。 

 千曲川橋梁から10分ほど北へ歩くと上田城跡である。背後には太郎山があり、川が削ったと思われる崖上にある。千曲川が天然の堀になっている。要害の地である。

 上田城は、徳川の大軍に二度攻められ(第一次、第二次上田合戦)、二度とも落ちなかった難攻不落の城として有名である。
 

 第二次上田合戦といわれてもピンとこないかもしれない。関ヶ原の合戦の際、秀忠率いる家康の別動隊を遅参させたという、あの戦いである。

 小諸城(懐古園)の前には、その際、秀忠が腰掛けたとされる憩石が残されている。

 ・・・くだくだと書いてきたが、隠れ歴男(れきお。歴女の対語らしい)ではないので、そこはよろしく。

2026年1月8日木曜日

年末の山旅(2)別所温泉

 

 上田駅で新幹線を下車する。上田は3回目である。27日はまだ半日あるので、どうしよう?

 山番組もすきだが旅番組もすきだ。「六角精児の呑鉄本線・日本旅」 「中井精也の絶景!てつたび」 「ニッポンぶらり鉄道旅」などをよくみる。

 これらの番組で上田電鉄・別所線が紹介されていた。そこで上田電鉄・別所線で別所温泉へ行くことにした。なお、隠れ鉄ちゃんではないので、そこはよろしく。

 上田というところは、北東から南西にかけて瓢箪のかたちをしている。中央のくびれ部分に上田駅がある。北東端にはあす登る予定の四阿山、日本百名山がある。南西端にはこれまた日本百名山の美ヶ原がある。

 別所線は、上田駅から美ヶ原の麓へ向かって走って行く。終点の別所温泉駅まで15駅。地元の人たちが乗り降りする、ザ・ローカル線である。ここもさぞかし経営がきびしいだろう。


 別所温泉駅、終着駅である。奥村チヨの歌の歌詞とはちがい、悲しい女が吹きだまっている様子はない。 

 別所温泉は、日本武尊が開湯したといい信州最古とされる。むかしは養蚕でにぎわっていたという。いまはそれはない。ひなびた温泉街である。

 温泉街には安楽寺、常楽寺、北向観音といった塩田流北条氏ゆかりの古刹があり、信州の鎌倉と呼ばれる。


 駅から10分ほど歩くと、温泉街に接して北向観音がある。堂が北向きにたつことから。常楽寺が本坊で、天台宗である。

 善光寺は来世利益、北向観音は現世利益をもたらすということで、両寺を参拝することが必要とされる。


 縁結びの霊木、愛染かつら。川口松太郎の小説『愛染かつら』のモデルとして有名になったという。

 ハート形の葉や桂の木は秋にメープルシロップのような甘い香りをだすので、縁結びの霊力があるとされたのかもしれない。冬は葉を落とし、縁結びの霊力は感じられない。


 芭蕉句碑。観音のいらかみやりつはなの雲

 隣には北原白秋「春駒」の歌碑もあった。 



 愛染堂奥の広場からは、塩田平、上田盆地、その奥に四阿山と根子岳をのぞむことができた。


 安楽寺。山号は崇福山、曹洞宗。


 見どころは国宝、八角三重塔。1952年3月、松本城とともに国宝指定を受ける。長野県で初である。八角というのが珍しい。四重に見えるが、初重は裳階である。庇である。


 大師湯。別所温泉には3つの共同浴場がある。石湯、大師湯、大湯である。それぞれ真田幸村、円仁、木曾義仲ゆかりとされる。


 どれにするか迷ったが、堺雅人@『真田丸』を思い浮かべつつ、石湯につかった。入湯料300円。安い。

2026年1月7日水曜日

年末の山旅(1)新幹線車窓から名山たち

 

 仕事納めの翌12月27日、早朝4時50分起床、第一便で羽田空港をめざす。福岡空港は夜明け前だ。

 いつもなら機窓の景色を楽しむのだが、間違えて窓のない窓側の席を予約してしまった。しかたなく洋画を楽しむ。2時間の映画なので1時間半の旅だと、いちばんよいところで終わってしまった。


 羽田からモノレールで浜松町、そこから山手線で東京駅。東京駅からは北陸新幹線で信州上田をめざす。あさま号はその日に指定をとることができた。

 本庄早稲田ふきん。右手に赤城山(1828m 日本百名山)がおおきく横たわっている。 


 高崎を通過すると、右手奥に谷川連峰(1977m 日本百名山)。雪をかぶっている。さらに、榛名連山がみえてくる。


 碓氷峠をトンネルで抜けると、間もなく軽井沢。右手に美しい円錐形の浅間山(2568m 日本百名山)がみえた。

 右手の山ばかり紹介するのは、進行方向に向かって右側の席(E席)に座っているから。左側にも名山が並んでいるのに紹介できないのは残念。
 

 佐久平を通過するとまもなく上田がちかい。やはり右手に烏帽子岳(2066m)と湯ノ丸山(2101m)。


 そしてあす登る予定の四阿山(2354m 日本百名山)と根子岳(2207m 花の百名山)。美しく雪をかぶっている。

2026年1月6日火曜日

2026年あけましておめでとうございます

 






 新年あけましておめでとうございます。
 
 元旦は太宰府の四王寺山で迎えました。初日の出は午前7時22分。よい一年を予感させるようなご来光でした。

 本年もよろしくお願い申し上げます。

2025年12月26日金曜日

ちくし法律事務所2025仕事納め

 


 きょうはわが事務所2025の仕事納めである。午前中は大掃除、午後はリクリエーションをして忘年会である。例年、大掃除のあとに締めの会議を行うが、ことしはスケジュールの都合で、昨夕おこなった。

 全体の年間相談数は1336件、昨年より9.3%増だった。

 相談内容としては、交通事故78件(13%増)、相続198件(21%増)、損害賠償87件、離婚147件、労働事件61件(56%増)、負債整理375件(12%増)、債権回収22件(22%増)、不動産・賃貸借・請負建築141件、会社法務26件、その他190件である。

 相談者の紹介もとは、再来554人、事務所HP154人、個人119人、隣接士業51人、法テラス65人、生協51人、顧問先46件などとなっている。

 相談者の居住地域は、筑紫野市376人、太宰府市203人、春日市94人、大野城市85人、那珂川市33人、福岡市136人、甘木朝倉市87人、糟屋郡43人などとなっている。

 地域に根ざして40年間がんばってきた現れ。弁護士8人、事務局10人で結束し、地域のみなさまの信頼・信用をかちえてきた結果である。

 このうち当職が担当した相談件数が262件。受任数96件、受任率は37%だった。弁護士になって40年なので、単純計算だとこれまでに1万件の相談を受け、4000件ちかくの事件の解決をはかってきたことになる。

 うまくいった事件もあるし、うまくいかなかった事件もある。あたりまえだ。70%程度勝ちそうな事件が勝ち筋、70%程度負けそうな事件は負け筋である。勝ち筋側が相談にくるか、負け筋側が相談にくるかは偶然の産物である。難しい事件、難しい依頼者もいれば、易しい事件、優しい依頼者もいる。活動実績を確認しながら、ことし一年の苦楽をあらためて思い浮かべた。
 
 われわれにとっても、みなさまにとっても、来年もよい年でありますように。

2025年12月25日木曜日

六本松界隈今昔(4)受験のころ

 

 現在、博多駅、天神南から六本松をとおり西区橋本まで、福岡市営地下鉄七隈線が走っている。教養部時代、地下鉄が通じていなかったため、博多駅から六本松まではバスだった。

 高校を卒業するまで大阪で育ったので、福岡の地理には疎かった。受験の際、博多駅バスセンターの券売のおばちゃんに「六本木まで!」と注文したら、「そんなバス停ありません!」と返された。・・・そりゃ、「六本松まで!」の言い間違いに決まっているやろ!

 途中、渡辺通り一丁目から六本松までは、いわゆる城南線という道路である。1978年当時、七隈線の工事のため(地下を掘り進めば交通への影響は少ない。が、予算を節約する都合で露天掘りである。)、片側交通だった。そのため大渋滞だった。いまの福大生の交通利便性はわれわれ先人の苦難のうえに成り立っているのだ。

 試験には、「久留米絣は井上伝女がはじめました。」の英作文や、「筑前はいまの何県でしょう?」という地元の受験生に有利な問題が複数出題された。

 久留米絣をはじめたのは井上伝という女性だということは後に知った。筑前はいまの佐賀県だと回答した。

 受験のときはJR鹿児島線の東郷駅にある親戚の家から通った。試験の帰りに博多駅から普通電車に乗ったら途中、筑前新宮という駅があった。「あれま、落ちたな。」と思った。

2025年12月24日水曜日

六本松界隈今昔(3)教養部

 

 教養部の跡地は科学館、JRマンション、裁判所になってしまっているのだが、この像は当時のまま残されている(場所は校舎前から六本松交差点前に移されている)。

 青陵乱舞の像という。旧制福岡高等学校の光栄を偲び、同校同窓会『青陵会』が寄贈したものである。

 旧制福高は1921年(大正10年)創立。当時、六本松は見わたす限りの田園地帯であったという。つまり、六本松の発展は、最初から学生街としての発展であった。

 1949年(昭和24年)に新制大学制度が実施され、旧制福高は九州大学に包括され、九州大学第一分校となった。

 1963年(昭和38年)4月、第一分校は廃止され、教養部となり、一般教養を教える場となった。

 昭和30年代後半~40年代は、高度経済成長に伴う経済復興が顕著となる一方、古い大学制度への反発や反戦などの機運が高まり、学生運動が活発におこなわれた。

 1970年代以降、かつて重視された人間形成や人格陶冶のための教養は、大学の大衆化、新中間層の出現、価値観の多様化、専門化の進展などにより、その規範的地位を失い、形骸化・希薄化が進んだ(竹内洋著『教養主義の没落』)。

 そして2009年(平成21年)、キャンパスは伊都地区へ移転、その歴史に幕をおろした。

 教養部もそれぞれの時代の流れと無縁ではなく、時代の要請により変貌をとげている。

 われわれは教養主義が没落しつつあった1978年(昭和53年)に入学し、1984年(昭和59年)に卒業した。医学部でもないのに、6年間もお世話になった。

 当時、学生運動はごく一部の人たちのものとなり、授業にはでないで部室でたむろし、空き教室でドストエフスキーやバルザックの大著を片端から読破する日々だった。

 いまや教養主義どころか、読書人口とともに本屋も急減してしまい、寂しいかぎりである。