2025年6月4日水曜日

『たたかいの論理 馬奈木昭雄弁護士オーラル・ヒストリー』(2)『サラダ記念日』(俵万智著・河出文庫)

 

 「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

 きょうはこの歌についての「経験則」を語ろう。

 『サラダ記念日』は俵万智の第一歌集。河出新社刊。

 434首を収録。八月の朝、野球ゲーム、朝のネクタイ、風になる、夏の船、モーニングコール、橋本高校、待ち人ごっこ、サラダ記念日、たそがれ横丁、左右対称の我、元気でね、ジャズコンサート・IMA、路地裏の猫、いつものアメリカン。

 これらサブタイトルごとに編まれている。もちろん、サラダ記念日は『サラダ記念日』のなか、「サラダ記念日」というサブタイトルのところに掲載されている。

 冒頭の「八月の朝」は50首の連作短歌。角川短歌賞(1986年)を受賞している。この流れで『サラダ記念日』も角川書店から出版されるはずだったが、社長の角川春樹が「歌集は売れない」と反対して話は没に。そのため河出から出版された。角川いわく「人生最大の失敗だった」。

 出版されたのは1987年5月。発売されるや、280万部の大ベストセラーとなり、新聞・テレビで一世を風靡した。弁護士2年目のことであり、40年前のことであるが、いまも記憶に新しい。

 表題歌は文字どおり人口に膾炙した。自身も何度も耳にし口にした。人口に膾炙した理由は、なんといっても現代口語で詠まれているところが、サラダのように新鮮で親しみやすかったからだろう。

 残念ながら、多くの人の鑑賞はここで終わり。自身もそうだった。ところが『たたかいの論理』にはその先が書いてある。

 「さて、なぜ七月六日なのか。この歌は七月六日ではければならない。ほかの日ではいけないと思います。」

 ヒントは七夕。「七夕が七月七日でしょう。七夕というのは織姫様と牽牛が年一回の逢瀬をする日です。」

 ある古川柳がある。

 江戸の町は市内騒然七月六日は普通の日ならず

 「なぜ江戸の町が騒然としているのか。嬌声が飛び交っている。七月七日は私たち庶民はちょっと遠慮して天上にお任せして、前夜祭で七月六日に頑張っておこうか。それで町中が騒然としている。この句を踏まえていると思わないと七月六日という意味がない。」なるほど、なるほど、笑。

 ただし、俵万智がこう考えていたかどうかは別問題。以下ウィキによる。

1 思いついたきっかけ 
 本歌は、弁当を作ってボーイフレンドと野球を見に行った時に思いついた。鶏のから揚げをいつもと違うカレーの味付けにしたら「美味しい」と褒められたので、「今日は記念日だな」と思ったのがきっかけ。

2 唐揚げがサラダに変わった理由
 唐揚げではヘビーすぎるし、メインがおいしいよりサブがおいしい方がより記念日にすることに意義があるんじゃないか。

3 7月6日という設定
 なんでもない日が記念日になるという思いを表現したかったため、恋愛のイメージが強い七夕の1日前をあえて選んだ。
 また、サラダがおいしい初夏であり、音韻的にも爽やかな印象を出すために7月(しちがつ)とサラダのS音で頭韻を響かせている。
 実際の日付は「七月でもなければ六日でもなくて、もうちょっと早い季節だったような気がする」

 俵万智がこの説明どおりに考えて作歌をしたのだとすると、馬奈木弁護士の解釈とは趣旨が違うようだ。

 それでも馬奈木説は間違っているわけではない。作品は作者の手を離れて一人歩きをはじめるから。同書の解説で川村二郎も書いている。「実のところ、その説明が事実かどうかを問うことにさして意味はないのだ。肝腎なことは、歌自体が、事実と関わらぬ遊戯性によって生きていることである。」

 馬奈木弁護士もそう考えている。「そのように読む方が面白いに決まっていると私は思います。本歌取りしたね。初恋同士がサラダを食べあってじゃれている情景か。そんな馴れ初めの間ではないでしょう。もっと深い関係、その次にステーキが出て来るに違いない。しっかり肉を食ってがんばろうねという読み方もできる。」

 ぼくも馬奈木説を支持したい。その理由は先の古川柳にもさらに本歌が存在するように思うから、その本歌とひもづけた方がとても豊かな世界が広がるから。その話はまた。

2025年6月3日火曜日

『たたかいの論理 馬奈木昭雄弁護士オーラル・ヒストリー』(1)「ジョニーへの伝言」

 

 久留米第一法律事務所創立50周年記念祝賀会にて、『たたかいの論理  馬奈木昭雄弁護士オーラル・ヒストリー』(土肥勲嗣著・花伝社刊)という本をいただいた。

 1 筑豊じん肺訴訟

 2 廃棄物処分場問題

 3 水俣病とは何か

 4 水俣病の責任の考え方

 5 なぜ、よみがえれ!有明訴訟なのか

 6 よみがえれ!有明訴訟開門確定判決

 7 住民訴訟から住民決定へ

 8 公害の教訓を原発に生かす

 9 なぜ、たたかいを続けるのか

 馬奈木弁護士は、企業城下町だったころの水俣に事務所を開き、水俣病とは何か、水俣病の責任はどう考えればよいのかを考え抜かれた。国とチッソが徹底して原因隠蔽を行うなかでの苦闘なので、論旨は強靱にならざるを得ない。

 国やチッソなどの大企業を相手にする裁判は、国や大企業だけが相手になるのではない。その2つだけでも物的にも人的にも十二分に強敵であるのだが、なんと裁判所も国や大企業の味方である。

 法廷傍聴をすればわかるが、露骨である(心情的にそうであるし、判検交流という仕組みを通じて裁判官が国の代理人をやっている。)。裁判所の運営やものの考え方も批判の対象とならざるを得ない。

 そんな国やチッソ、そして裁判所を敵にまわす訴訟で、味方となるのは国民世論の常識だけである。国民とは何か、国民世論とは何か、どうすれば味方につけることができるのか?これらについての考察も深まらざるを得ない。

 などなど。とても興味深く、実践的な論考(についての座談録)が並んでいる。当職も不肖の弟子であることを自負している。不肖であることは、このような本の読みにもあらわれてくる。

 裁判所・裁判官批判の論旨がある。要件事実教育(裁判の対象を要件事実のみに制限し、加害の背景をなす国家による産業政策等に言及することを制限する。)批判、事実認定の内容をなす経験則不足(大学を出てそのまま裁判官になってしまうので、社会のことを知らない。)批判など。

 このうち経験則不足の部分をとても面白く読んだ。不肖の弟子だから。例として挙げられているのは、ひとつは「ジョニーへの伝言」、ふたつは「サラダ記念日」。これらが裁判官の経験則不足の例として適切かどうかはおくとして・・・。

 まず「ジョニーへの伝言」。1973年ペドロ・アンド・カプリシャス、1989年高橋真梨子が歌って大ヒット。カラオケでもよく歌われた。作詞は阿久悠。

 著作権の関係で全歌詞を紹介できない。文意を理解するうえで必要最小限だけ紹介すると

 ジョニーがきたなら伝えてよ
 2時間待ってたと・・・

 わたしは大丈夫
 もとの踊り子でまた稼げるわ・・・ 

 ちなみに馬奈木弁護士はお酒もよく嗜まれ、よく歌い、座談の名手でもある。バーのカウンターで歌や歌手のウンチクを語られることも多い。

 太田裕美が歌っていた「木綿のハンカチーフ」が実は男女のかけあいの歌詞になっていて、デュエット曲でして歌える。などということも馬奈木弁護士に教えていただいた。

 さて問題は「ジョニーへの伝言」の歌詞にでてくるジョニーとは誰なのか?、歌い手である主人公は何者なのか?2人の関係は何か?である。

 馬奈木弁護士は法科大学院で教えていたこともあるのであるが、学生たちはまったく情景を描くことができなかったという(ま、やむを得ないと思うが。)。

 まず、ジョニーとは何者なのか?手がかりはイギリスで有名な作家ルース・レンデルの推理小説(馬奈木弁護士は大量の推理小説を読まれている。)。シェイクスピア劇の女優さん同士が楽屋で話している。

 「今日はあなたのジョニーは来るの?」
 「来るんじゃないの。さっき楽屋に花が届いたから」

 そしてイギリスでジョニーというのは、俳優のパトロンの隠語なのだそう。阿久悠はイギリスでシェイクスピア劇の俳優のパトロンをジョニーと呼ぶのを知っていたはず・・・。

 つぎに、踊り子とはどんな仕事なのか?日本舞踊を踊る女性やバレリーナではない。そのような人を踊り子とは呼ばない。日本で踊り子とはストリッパーのことである。

 つまり、「ジョニーへの伝言」は、ストリッパーがパトロンと駆け落ちしようとして2時間待っていたけれど、パトロンに裏切られて、友だちに伝言を残す歌である。その情景を頭に描きつつ歌わないと、ほんとうに歌ったことにはならない。・・・なるほど。

 さてつぎは「サラダ記念日」。ほんとうに語りたかったのは、こちら。「ジョニーへの伝言」はその枕。つづきはまた。

2025年6月2日月曜日

久留米第一法律事務所創立50周年記念祝賀会

 

 久留米第一法律事務所創立50周年記念祝賀会に出席した。同事務所は馬奈木昭雄弁護士が1975年6月、福岡県の地方都市である久留米で創立された。

 わが事務所の創立は1984年4月であるから、9年先輩。地域に根ざし、住民とともに歩むという理念を掲げる地域事務所の大先輩である。

 馬奈木弁護士は、地域で人権課題を解決するだけでなく、水俣病裁判、じん肺裁判、廃棄物問題、有明訴訟など多数の国民的な人権課題も解決すべく運動の指導してこられた。

 50周年というのだから、すごい。馬奈木弁護士は83歳になられるという。その間、大病等も克服され、元気なお姿でご挨拶された。

 わが事務所の先代所長である稲村晴夫弁護士が久留米第一で5年間修行したことから、兄弟事務所である。当職も、弁護士登録直後から、水俣病裁判や牛島税理士訴訟裁判に所属し、困難な訴訟のたたかい方についてご指導いただいた。

 牛島税理士訴訟の最高裁勝訴判決は1996年であるから、もはや30年前のことになる。ひさしぶりに歓談をすることができて、楽しい時間をすごすことができた。わが事務所としても今後とも地域的課題のみならず、国民的課題にもとりくんでいかなければならないと決意をあらたにした。