2025年12月8日月曜日

紅葉の大興禅寺~基山(1)大興禅寺

 

 ご招待を受けていたので、基山に遊びにいくついでに、大興禅寺に紅葉をみにいった(2週間前)。

 ツツジが有名なのであるが、紅葉もなかなかのものである。ただし、長い階段を登る必要がある。

 寺伝によれば、聖武天皇の勅願により、行基により創建。平安時代に円仁(慈覚大師)により中興されたとの伝承あり。1530年ころの兵火により堂塔は焼失、1542年に当地を領した筑紫惟門が本堂を再建、江戸時代に入り基山が対馬藩領となると領主の宗氏により堂宇の整備がなされ、寺領を寄進した(以上、ウィキ)。

 これまたウィキによれば、行基は関西で活躍したようで、九州まで来たとの記載はない。が、百済に帰化していた中国人の氏族らしいので、九州と縁がなかったわけでもあるまい。

 本尊は行基の作と伝えられる十一面観世音菩薩。秘仏となっており、12年に1度の午年にのみ開扉される。直近では2014年。九州三十三観音霊場第4番札所(以上、ウィキ)。

 ということは、来年開扉があるということだ。13年後に長い階段を登れるかどうか不明であるので、是非とも来年の開扉の際に再訪したい。





2025年12月5日金曜日

ある葬儀社建物返還請求事件(勝訴的和解)

 

 ある葬儀社Xからの依頼事件。自社の元従業員であったYに店舗を賃貸していた。事情があって同店舗の返還を求めたところ、当初は承諾されたが、後に拒絶された。本件は交渉のすえ裁判となった。

 賃貸借契約の場合、相手方が承諾すれば終了する。合意解除と呼ばれる。本件で、Yは承諾していないと主張した。たしかに、承諾したことを裏付ける客観証拠は存在しない。

 調べてみると、本件店舗ではYだけでなく、AやBも葬儀を行っているようだ。Xはこれを承諾していない。民法612条は、賃借人は、賃貸人の承諾を得なければ、その賃借権を譲り渡し、又は賃借物を転貸することができない。賃借人がこれに違反して第三者に賃借物の使用又は収益をさせたときは、賃貸人は、契約の解除をすることができる。と定めている。

 そこでYがAやBに葬儀場を使用させているのは、本条に違反しているので、契約を解除して白紙にする、本件店舗を返還せよと主張した。

 Yは、Aは自社のアドバイザーであるから第三者ではない、Bは年に数回しか利用していないから信頼関係を破壊していないなどと主張して争った。

 さらに調べてみると、Aは某市の創業事業の援助を受け、独立して葬祭業を営んでいることや、Yが身内の法人の事務局をしていることなどが判明した。

 そこでAが「第三者」であるかどうかを明らかにするため、Yに対し、YとAの過去の営業状態について釈明を求め、確定申告書などの証拠の提出を求めた。

 提出された資料等によると、本件店舗における営業について、ある年まではYの名義で申告されていたが、その後はAの名義で申告されていたことなどが判明した。

 裁判では互いの主張事実について、書証を提出するほか、人証で立証することになる。しかし本件では上記事情が明らかになったのであるから、勝訴を確信することができ、これ以上の立証は不要であると判断した。

 裁判所もおなじ心証を形成したと思われ、和解を勧告し、Yは本件店舗を退去する、Xは解決金30万円を支払うとの和解が成立した。

 解除権が認められないときは営業補償を含む高額の立退料を支払わなければならないので、この程度の解決金は和解をするうえでやむを得ない。かくて一件落着。めでたし、めでたし。

2025年12月4日木曜日

北陸路~越後路を旅して(10)ふたたび小松

 

 那谷寺から小松駅に帰ってきた。上は北陸新幹線の駅である。

 飛行機の時間までしばし間がある。ミニ観光をしよう。



 まずは例の駅横にある、こまつの杜。巨大な重機が展示されている。上の写真に人が写っている。比較すれば大きさが実感できるだろう。 





 こまつ曳山交流館みよっさ。駅から西へすこし歩く。

 こまつでは町衆文化の「曳山子供歌舞伎」が有名。安宅の関を抱える土地がらである。その写真や曳山が展示されていた。


 小松市立本陣記念美術館。曳山交流館から北へすこし歩く。途中、城下町としての面影が残る。

 美術館は小松城跡・芦城公園の一画にある。小松城は加賀前田藩の支城である。


 「小松の至宝」展をやっていた。加賀前田家三代・前田利常にまつわる品々などを展示していた。


 いきなり最終回ではないけれども、美術館から途中省略して博多湾上空。まもなく着陸だ。北陸路~越後路を旅して、筑紫路のよさを再確認することができた。

 『おくのほそ道』の旅のゴールは大垣だった。芭蕉はそこからあらたに伊勢へ旅だっていった。ひとつの旅が終わったばかりだが、あらたな旅をしたくなった。旅が好きである。

2025年12月3日水曜日

北陸路~越後路を旅して(9)那谷寺

 

 最終日、どこを訪ねようか迷った。糸魚川から小松空港の間だと、富山だとか金沢だとかが選択肢となる。

 富山だと立山室堂まで行きたくなるし、金沢だと見どころが多すぎる。下手をすると、帰りの飛行機に間に合わなくなりそうだ。

 迷ったすえ、やはり芭蕉『おくのほそ道』ゆかりの那谷寺を訪ねることにした。


 那谷寺には芭蕉も小松から山中温泉に行く途中で立ち寄っている。『おくのほそ道』にいわく。

 山中の温泉に行くほど、白根が岳跡に見なして歩む。左の山際に観音堂あり。花山の法皇、三十三所の巡礼とげさせたまひて後、大慈大悲の像を安置したまひて、那谷と名付けたまふとなり。那智・谷汲の二文字を分かちはべりしとぞ。

 花山天皇は兼家・道兼父子にダマされて退位した後、傷心を慰めるためか西国三十三所の観音霊場を巡礼した。西国三十三所霊場は1番が那智山、33番が谷汲山である。

 花山法皇は、この寺の岩窟で輝く観音三十三身の姿を感じた。そして観音霊場三十三か所はすべてこの山に凝縮されるとして、那智山の那、谷汲山の谷の字をとって本寺の名を那谷寺とした。

 那谷寺の特徴はなんといっても奇石である。


 奇石さまざまに、古松植ゑ並べて、茅葺きの小堂、岩の上に造り掛けて、殊勝の土地なり。

 奇石なのだが、どこか笑い顔にみえてユーモラスである。傷心の花山法皇や芭蕉の心を軽くしたのかもしれない。


  石山の石より白し秋の風

 風光明媚というが、寂寥の芭蕉の心には風がとても白く感じられたようだ。北原白秋の名のとおり、秋は白いというのが古来からのお約束でもあるが。

2025年12月2日火曜日

北陸路~越後路を旅して(8)親不知


 フォッサマグナを堪能したあとは、日本海ひすいラインで糸魚川の東にある「天下の険」親不知をめざす。おやしらずと言っても奥歯ではない。

 
 
 親不知駅舎。国の登録有形文化財に登録されている。北陸道の難所に位置し、明治末期の北陸本線駅舎の様相を伝える。


 2日目の宿は親不知観光ホテル。検索すると関連ワードとして「心霊」が表示されるいわくありそうな宿である。

 親不知駅から歩けなくはないらしいが、すこし距離があるのと歩道がないので危険なのだそうだ。

 ホテルの送迎を利用した。送迎車のドライバーはホテルの支配人である。なかなか話好きで、福岡にも来たことがあるらしい。 


 親不知は、日本海沿いの断崖絶壁、古くから交通の難所として知られる。北アルプスの北端が日本海の荒波に削られてできた。上からのぞき込むが、浜は見えず、火曜サスペンスの世界。長さはおよそ15キロメートル(勝山~市振)、崖の高さ300-400メートルである。


 ホテル前から長い階段をくだって波打ち際までおりることができる。 


 断崖と波が険しいため、親は子を、子は親を顧みることができないため、親不知・子不知と呼ばれる。

 ここを芭蕉一行も歩いた。「おくのほそ道」市振の段にいわく。

 今日は親不知らず・子知らず・犬戻り・駒返しなどという北国一の難所を越えて疲れはべれば・・・ 

 写真でははっきりしないが、水平線上にうっすらと佐渡島が見えていた。


 西側には能登半島がうっすらと見えていた。それを覆うように虹がかかっていた。


 海浜の上部にレンガトンネルがある。旧国鉄北陸本線のトンネルの跡である。


 親不知には時代により4世代の道が通っている。ここはかっての国道で、第二世代の道路である。

 右手岩盤には「如砥如矢」と彫られている。砥石のように平らで矢のようにまっすぐ通れるという意。難所をなんなく通れるようになったときの喜びをあらわしている。

 険しい崖に道を切り開いた先人たちの苦労をいまにつたえる貴重な道として「日本の道100選」、「土木遺産」に認定されている。

 現在、コミュニティロードとして整備されている。


 第一世代(海浜沿い)、第二世代(いまいるところ)、第三世代(現在の国道8号線)、第四世代(北陸自動車道)の道路が見える場所。


 コミュニティロードにある東屋、先の四世代道路がみえる。

 手前の像はW・ウェストン。日本各地の山に登り『日本アルプスの登山と探検』を執筆、日本アルプスを世界に紹介した。彼はここを日本アルプスの起点であると記している。


 ホテル横に栂池新道登山口。ここを登れば、後立山連峰の朝日岳に至ることができる。だが長大。いちどはチャレンジしたいが、できれば下りに利用したい。

2025年12月1日月曜日

北陸路~越後路を旅して(7)フォッサマグナ


 大糸線。信濃大町と糸魚川を結ぶ。JR西日本旅客鉄道が管轄している。このあたりほとんどが三セク化されているところ、沿線に白馬などの観光地を抱えていることからJR線として残されたのだろう。

 糸魚川というが、市内を糸魚川という川が流れているわけではない。流れているのは姫川である。先に紹介したヒスイ峡からヒスイを運んだ川である。大糸線は、糸魚川から姫川に沿って南下する(実際は高度を上げていく)。 

 電車の背後に根地駅がある。 


 根地駅越に、姫川渓谷や白馬方面を望む。

 姫川の支流、根地川。手前の鉄橋は大糸線である。後ろの山影は右が雨飾山(日本百名山)、左が駒ヶ岳。


 なぜ、根地まで来たかというと、フォッサマグナをじかに見てみたかったからである。ここにはフォッサマグナパークがあり、フォッサマグナをじかに見ることができる。この旅、最大の目的地である。

 フォッサ・マグナはラテン語。英語では看板にあるとおりMajor Fault、日本語で大きな溝である。いまの日本地図をみなれたわれわれには想像しづらいのであるが、本州は太古、東本州と西本州にわかれていた。本州と北海道、四国、九州のように、東本州と西本州との間にも海があったのである。これが大きな溝と呼ばれるゆえんである。
 https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%95%E3%82%A9%E3%83%83%E3%82%B5%E3%83%9E%E3%82%B0%E3%83%8A#/media/%E3%83%95%E3%82%A1%E3%82%A4%E3%83%AB:Tectonic_map_of_southwest_Japan.png

 もちろんその後の大きな地殻変動により、フォッサマグナがあったところには火山や堆積岩で陸地になっている。

 だから、北アルプスに登って東をながめても、フォッサマグナを実見することはできない。


 それなのになぜそのようなことが言えるかというと、地質構造の大きな違いからである。西本州の地層が古いのに対し、フォッサマグナのほうが新しく火山噴出物で構成されているのである。

 糸魚川駅から南東に頚城山塊(雨飾山を含む)、南西に北アルプス北部が見えていた。西本州にあたる北アルプスの地層が5000-6500万年前のものであるのに対し、頚城山塊は2500万年前以降の火山噴出物なのである。

 フォッサマグナを発見し公表したのは明治期のお雇い外国人ナウマンである(1885年の論文。ナウマンは1854年生まれであるから31歳ころ)。ナウマン象の化石を発掘した、あのナウマンである。すごい。小泉八雲以上かもしれない。



 フォッサマグナパークの核心部。西(左)側が西本州、東(右)側がフォッサマグナであたところである。自然のものではなく、分かりやすく露出させているもの。

 誤解しないようにしないといけないのは、フォッサマグナは面。ここはその西端の線である。糸魚川静岡構造線という大断層である。フォッサマグナの東端がどこであるかは議論がある。


 フォッサマグナパークから南を望む。手前は根地川であるが、川向こうやや左手に大きな酒造屋がみえている。糸魚川静岡構造線は、あのあたりを通って右手の山あいを越えて静岡まで続いている。

 なぜ、あそこに酒造屋があるかというと、糸魚川静岡構造線からおいしい水が流れくるからである。

 このあたりは、越後と信濃を結ぶいわゆる塩の道でもある。ここらあたりを通って塩や海産物を内陸まで運んだのである。姫川は暴れ川だったので、川沿いは危なくて通れない。そこでやや山沿いに道はつけられている。


 糸魚川市内に戻る。南の丘のうえにフォッサマグナ・ミュージアムがある。フォッサマグナパークで実見したことを、ヒスイや火山岩・変成岩などが展示されている。理解が深まった。

 ちかくに長者ヶ原遺跡がある。縄文時代にヒスイをつかって勾玉を製作していたらしい。

2025年11月28日金曜日

北陸路~越後路を旅して(6)谷村美術館・玉翠園、翡翠園

 



 糸魚川といえば、 糸魚川静岡構造線(フォッサマグナ西端)の北の起点であり、東西の日本列島の中央に位置し、全域がユネスコ世界ジオパーク(地球科学的価値をもつ遺産)に指定されている。

 ジオ的に東西日本の中央にあることから地の利を生かし、東西の日本文化の交流拠点、北前船往来による海上交通の拠点、越中、信濃、越後三国の物流拠点として栄えた。

 現在の人口は3万6000人余であるが、往時の繁栄をしのばせる観光拠点が市内に点在している。このうち、谷村美術館・玉翠園と翡翠園を訪ねた。ヒスイ海岸からは歩いて回れる距離である(健脚向き)。

 まず谷村美術館。木彫の仏像作家澤田政廣の作品を展示。村野藤吾の設計した展示館は、平山郁夫の絵画シルクロード「敦煌」のよう。砂漠の石窟寺を彷彿とさせる建物が出現する。

 仏像は金剛王菩薩、光明佛身、弥勒菩薩など10点。ヒスイの里だけに珠玉の作品たち。ガウディのように湾曲した内部に自然光と人工照明を組み合わせた展示は、京都・奈良の仏像たちとはちがったメッセージと印象をわれわれに届けてくれる。


 谷村美術館に接して玉翠園。入口では自然石の大観音像(高さ8m、90トン)が出迎えてくれる。磐座(いわくら)な風景である。



 足立美術館枯山水庭園を手がけた中根金作が作庭。背後の山を借景し、そこから視線を移した月山から水が流れ下り、行雲流水な趣である。


 しばらく歩いて翡翠園。受付のおばちゃんたちと「福岡からはるばるここだけのために来ました。」などと冗談をいいあいつつ、入園。


 入園するとすぐ正面に目玉の(ような)コバルトヒスイの原石。70トン。おばちゃんたちが触ると幸せになれるというので、丹念になでなでした。

 ヒスイには繁栄、長寿、幸福、安定の効果があるとされている。70トン分のパワーストーンのパワーをいただいた。


 巨大なヒスイ原石の背景には日本庭園が広がっている。


 庭園の一画にはヒスイ美術館がある。ヒスイを加工した作品が多数展示されている。無料である。眼福眼福。