2025年3月7日金曜日

ある損害賠償請求事件(解決)

 

 古くからの知りあいに「先生は離婚事件をされますか。」と訊かれて面食らうことがある。いつもハンセン病訴訟や薬害肝炎の話しかしないので、そういう国相手の大型事件しかしないと思っていらっしゃるのである。

 しかしそんなはずはない。二日市という福岡市郊外に位置する地方都市で事務所をかまえている以上、いろんな種類の事件が持ち込まれる。

  たとえば、ある損害賠償事件が解決した。こちらの依頼人Yは不法行為の加害者であるとして訴えられたほうである(一般に判例集では、訴えたほうをX、訴えられたほうをYと表記する。)。

 事案は、叔父Xと義甥Yの争い。Xの母、Yの義祖母が亡くなった斎場でのこと。以前からの因縁があり、XとYとの間で口論となった。売り言葉に買い言葉だったのだが、Yの言動だけがとらえられて脅迫行為とされ、慰謝料200万円の損害賠償を請求される裁判となった(民事裁判)。

 通例であれば喧嘩両成敗ですんだと思われる。ところがXが110番通報したため、Yの言動だけが脅迫であるとされ、刑事事件で有罪の罰金刑が確定していた。

 裁判では、当該事件に至る経緯について主張し、立証した。しかし刑事事件で有罪になっている事実は重く、なにがしかの解決金の支払いは免れない情勢であった。

 ちなみに、Xが東京在住であったので、事件は東京地方裁判所に係属していた。口論は博多弁でおこなわれた。標準語ではたいしたことのないやりとりでも、方言によってはドスが効いたりする(実際にドスを持っていたわけではない。)。

 諸般の事情を考慮して、裁判所は20~30万円の解決金をYが支払う旨の和解案を打診した。そして5回の審理期日を経て、Yが25万円を支払う旨の和解が成立した。

 書けないことが多くて、読者には勘所がつたわらないかもしれない。が、このような仕事もしてますよということで、ご報告まで。

2025年3月6日木曜日

ある相続・遺産分割事件(解決)

 

 ある相続・遺産分割事件が解決した。長くかかった。

 被相続人は、依頼人Aの父である。母はすでに亡く、兄弟姉妹が1人Bである。

 長くかかった原因の1つは、この父が3度婚姻し、それぞれの婚姻(前妻、前々妻)について子がいたためである。前々妻の子が1人C、前妻の子が2人DEである。依頼人からみて、CDEはいわゆる腹違いの兄弟姉妹である。つまり、相続人はABCDEの5人である。

 腹違いの兄弟姉妹のことを、民法は「父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹」と定義している。CDEはこれにあたる。依頼人AとBは「父母の双方を同じくする兄弟姉妹」である。民法は、父母の一方のみを同じくする兄弟姉妹の相続分について、父母の双方を同じくする兄弟姉妹の相続分の2分の1とすると定めている。

 その結果、相続分はA2/7、B2/7、C1/7、D1/7、E1/7となる(分数が苦手だと、ここでつまづいてしまう。ついてこれるかな?)。途中でEがDに相続分を譲渡したので、相続分はA2/7、B2/7、C1/7、D2/7となった(ややこしや)。

 長くかかった原因の2つは、遺産の内容が変化したからである。当初、不動産は被相続人の単独占有という前提で協議をしていたところ、途中で共有持分であることが判明した。たくさんある遺産のなかの一部であるとはいえ、当職の確認もれである(ここには書けない事情もあった。)。

 長くかかった原因の3つは、依頼人が途中で怪我をし入院されたからである。社会の高齢化にともない、このような事象が増えている。退院後も、松葉杖をつきながらの打合せでたいへんである。

 長くかかった原因の4つは、他の相続人の意向により、他の相続人の意向が変化したことである。当初は要らないと意向を表明していた人が、他の相続人が要ると表明したことを知って、それなら自分もいるという具合である。

 長くかかった最大の原因は、前妻の関係の相続がからんできたことである。相手方は別途解決を望んだが、当方は同時解決を希望した。この調整に手間取った。

 遺産分割協議終了後も、遺産を換金するのに時間がかかった。当職らが作成した書類について、まず法務局の不動産登記はすんなり受け付けてもらえた。しかし金融機関や証券会社はなんやかやと主張し、なかなか換金に応じてくれなかった。

 以上の諸要因により、長くかかった。長くかかったが無事解決することができた。めでたし、めでたし。

2025年3月5日水曜日

倉敷~岡山城~尾道~福山城の旅(5)福山城


 ネット検索の時代である。昼ご飯は本通り商店街からちょっとはずれたところにある広島風お好み焼き屋に入った。口コミでは店主の客あしらいが悪いとけなされているが、評価は4.2とまずまず。これは味は大丈夫という意味だろうと判断し、間違っていなかった。

 さて残り午後の時間をどうしよう?選択肢としては鞆の浦と福山城である。孫連れでもあるので福山城とし、JR線で福山駅まで引き返した。

 

 福山城は福山駅のすぐ北側。道路一本渡ればもう南門へ至る坂である。南門を入ると伏見櫓。天守閣とみまがうばかりだが櫓(やぐら)である。慶長年間に建てられたと推定される伏見城の櫓を1620年に移築したもの(現存)。なぜ、そんな立派なものを移築することができたのか。

 福山城築城まで福山という街はなかった。築城したのは徳川家康の従兄弟の水野勝成。毛利など西国の有力外様大名に対する抑えとして築城。徳川の威信を示すため、幕府の全面的なバックアップが得られたのである。


 もちろん天守閣に登る。残念ながら天守は空襲により焼けてしまっている。昭和41年に復興。

 南側を望むと福山駅が見える。福山駅は昔の三の丸あたり。新幹線や在来線に乗って福山駅に来ると、もれなく旧福山城に入城したことになる。 


 福山駅のさらに南の景色。赤い広告塔がたつ天満屋のビルの左肩あたりが鞆の浦。鞆の浦は近年(でもないか)、ジブリ映画『崖の上のポニョ』で有名になった。

 瀬戸内海の東西から潮が合流する場所で、古来、海上交通の要衝であった。大宰府をめざした大伴旅人、その先唐をめざした空海、最澄が通った。また室町幕府発祥と終焉の地であるとされる。近世では陸上交通の要衝として上記のとおり家康の従兄弟が支配・鎮護した。

 水野勝成はすこし変わりものだったようだ。仕える殿をつぎつぎと変え、家康にも叱られたりした。しかし最後は家康の側近となりこの地を委ねられたのだから、大器晩成といってよいだろう。


 西方。勝成は毛利ら有力外様大名の圧を感じたことだろう。


 北方。


 北面壁には全国唯一、鉄板が張られている。令和の大普請で復元されたもの。こちら側は堀がなかったため防備を固める必要があったためという。

 やはり兵どもが夢のあと。

2025年3月4日火曜日

倉敷~岡山城~尾道~福山城の旅(4)尾道・後半

 

 ロープウェイで千光寺頂上へ。歩いて登りたいところだが、案内にしたがう。右手の黄緑は艮(うしとら)神社のクスノキである。

 山頂駅には立派な展望台PEAKができていた。360度の展望を楽しむことができ絶景である。


 東は尾道大橋。右手奥の内海を行くと鞆の浦である。潮の干満により、瀬戸内の潮流は鞆の浦から流れ出たり、そこへ流れ込んだりするという。


 西は尾道駅。その先は三原方面である。


 南は向島。その向こうには瀬戸内海が光っている。向島の南西には因島大橋と因島も見えていた。


 千光寺に参拝して坂をくだると天寧寺の三重塔。尾道大橋とのとりあわせが美しい。


 平山郁夫画伯はここから描いた。




 猫の細道。この日、リアル猫は一匹も見かけず。


 樹齢900年といわれるクスノキのある艮神社。大林宣彦監督の「時をかける少女」や「ふたり」のロケ地。


 神社の梅もちらほら。

2025年3月3日月曜日

倉敷~岡山城~尾道~福山城の旅(3)尾道・前半

 

 翌日は尾道。岡山から新幹線で福山まで、そこからJR山陽本線で尾道まで。

 むかしは駅を出てすぐ左折し、北側の坂道を上がったり下がったりした。そこに志賀直哉の旧宅などが点在していた。

 しかしいまはそこはモデルコースにはなっていない。本通り商店街を通って千光寺ロープウェイ山麓駅へ行くようになっている。

 商店街の売上アップに貢献するためだろうか、林芙美子も多少困惑気味である。


 「海が見えた。海が見える。」。『放浪記』の一節。

 商店街からすこし南下すると、すぐ海。尾道水道である。結構なボリュームの流れが西から東へ流れて行く。汐が鞆の浦へ向かうのは満潮だっか干潮だったか。


 対岸は向島。フェリーがひっきりなしに往復している。来る人、向かう人。これこそ一衣帯水だろう。


 東に目を向けると、視界の端に尾道大橋。しまなみ海道の入り口だ。自転車に乗って今治まで行ける。『村上海賊の娘』(和田竜)や『汝、星のごとく』(凪良ゆう)の世界が彷彿とする。

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2025年2月27日木曜日

倉敷~岡山城~尾道~福山城の旅(2)岡山城

 

 雪交じりの雨がふりだしたので倉敷観光を切り上げ、岡山へ。駅前では例の人たち、もとい人と動物たちが迎えてくれた。

 この像があるからといって、桃太郎が岡山の話であるとはかぎらない。岡山のほかにも、うちこそが本家だと名乗っているところがある。しかし文化庁は『「桃太郎伝説」の生まれたまち おかやま』の名称で日本遺産として認定している。

 桃太郎が岡山の話であることの根拠とされるのは、①吉備団子、②桃、③吉備津彦命の温羅胎児伝説である。

 ①は岡山の旧国名=吉備と吉備団子を結びつける説。しかし、吉備団子は古くはとう団子と書かれていて本来的な関係はないらしい。その他も同様。なにせ、にほんむかし話の登場人物であるゆえ、決め手はないようだ。


 岡山城は国指定の史跡。城主は、戦国時代の宇喜多氏、関ヶ原後の小早川氏、江戸時代の池田氏と変遷している。

 北側から東側へ迂回して旭川が流れ、天然の堀をなしている。北側の川向こうに後楽園がある。
 

 別名、烏城。黒漆塗りの下見板に白い格子窓のとりあわせが美しい。

 明治に入り、御殿・櫓・門の大半が取り壊され、天守も大戦時に消失している。

 国破れて山河あり、城春にして草青みたり。

2025年2月26日水曜日

倉敷~岡山城~尾道~福山城の旅(1)倉敷

 

 週末は東北雪山の山行を予定していたが、大雪予報のため断念。代わりに倉敷~岡山城~尾道~福山城を旅してきた。

 大寒波襲来でお隣の安芸の宮島などでも雪景色がニュースになっていたが、倉敷あたりはときおり雪まじりの雨が降った程度。

 三連休の中日だったが、思ったほどの人出にはあわず、新幹線も観光地もそれほどストレスなく旅することができた。

 倉敷旧市街は江戸幕府の天領。高梁川と児島湾を結ぶ運河として倉敷川が作られ内陸の港町として栄えた。

 倉敷といえば美観地区、美観地区といえば大原美術館だ。

 美術館は倉敷の実業家(紡績業)大原孫三郎(1880-1943年)が西洋美術等を展示するため1930年に開館。日本初の近代美術を展示する美術館である。イニシャルな作品群は洋画家児島虎次郎(1881-1929年)が収集した。

 残念ながら内部は撮影禁止なので外観のみ。本館は古代ギリシアのイオニア式柱を有する古典様式。和様の美観地区においてひときわ異彩をはなち目をひく。


 本館左右を守護するのは二体のブゾンズ像。向かって左は『洗礼者ヨハネ』。『考える人』で有名なロダンの作品。座って考えるのではなく、歩いて活動している。そしてイエスに洗礼を授けた。

 洗礼者ヨハネ像としてはダ・ビンチの謎の微笑みのほうが好きだ。どちらも天を指さしているのだが。



 向かって右は『カレーの市民 ジャン・ダール』。やはりロダン作。国立西洋美術館前にも6人の群像がある。こちらはその1人、ジャン・ダール。

 カレーの市民は1347年百年戦争のときの故事に基づく。百年戦争は英仏の王家を中心とする争い。英王エドワード3世はフランスの重要港カレーを1年以上包囲し、市のリーダー6人が出頭すれば人々の命は救うともちかけた。6人は処刑を免れないと覚悟を決めていた(実際には王妃の嘆願により助命された。)。


 美術館のあとは今橋を渡り、大原本邸へ。雛めぐりをやっていた。こちらは古代日本の王と王妃像。実際には「光る君へ」で描かれたように権力争いがあったはずだが、ロダンに比してなんとも優雅で平和な造形だ。

2025年2月25日火曜日

日常生活自立支援事業・暮らしのサポートセンター事業

 

 先日、家計相談支援事業@生活困窮者自立支援法について書いた。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2025/02/blog-post_14.html

 きょうは日常生活自立支援事業及び暮らしのサポートセンター事業について書こう。

 日常生活自立支援事業は、認知機能が十分でない認知症高齢者や知的障害者、精神障害者を対象とした権利擁護のための制度である。

 われわれ弁護士にとって馴染みのあるのは、成年後見制度である。やはり認知症、知的障害、精神障害などにより物事を判断する能力が十分でない人について、本人の権利を守る援助者を選ぶことで、本人を法律的に支援する制度である。援助者は、本人の判断能力が少ない順に、後見人、補佐人、補助人となっている。

 成年後見が民法に基づくのに対し、日常生活自立支援事業は社会福祉法に基づく制度である。前者を運営するのは家庭裁判所であり、後者を運営するのは福岡県社会福祉協議会である。

 前者の支援内容は、別の機会に書こう。後者の支援内容は、福祉サービスの利用援助や苦情解決制度の利用援助、住宅改造、居住家屋の賃借、日常生活上の消費契約及び住民票の届出等の行政手続に関する援助など。具体的には預金の払い戻しや解約などの金銭管理、定期訪問などにより生活変化を察知することなどである。

 本事業の利用は契約による。そのため、本事業の対象者は、認知症、知的障害、精神障害などにより判断能力が不十分でありながら、かつ、本事業の契約内容が判断できるレベルの能力は維持している必要がある。

 筑紫野市の社会福祉協議会は、福岡県から委託を受けて、本事業を実施している。筑紫野市社協は、同事業だけでなく、暮らしのサポートセンターを設置し、独自事業として暮らしのサポートセンター事業を実施している。生活保護を受給している人は前者を、そうでない人は後者を利用していただいている。

 暮らしのサポートセンターは運営審議会を設け、運営に関する事項について審議している。当職はその審議会の委員長をおおせつかっている。

 たとえば、自宅で独居生活をしているものの、高齢化がすすみ支払いの滞納や二重払いが見られるようになった高齢者について、手続き代行サービス・財産保全サービスを契約する。具体的な支援の内容は毎月2回の訪問(生活費の払戻等)、通帳・はんこ等の預りである。

 成年後見が必要になった高齢者宅を訪問すると、日常生活が維持できず、財産管理が悲惨な状況になっていることがある。このサービスを受けることができれば心強い。配偶者や子どもがなく、東京や大阪で姪がひとり心配しているなどというケースなどではうってつけな制度である。

 費用もビックリするくらい低廉である。自分も判断力が怪しくなってきたら、社協にお世話になろうと思う。

2025年2月21日金曜日

「はにわ」展@九州国立博物館(4)宗像大社沖の島、五郎山古墳、大宰府政庁跡、天満宮・飛梅


 「はにわ」特別展のあとは、いちおう九博の常設展(文化交流展示室)へ。

 この島は沖ノ島。島には世界遺産宗像大社の沖津宮がある。先日孫と一緒に登った城山の遙拝所からその日は見えなかったところだ。


 沖ノ島から発見された8万点に及ぶ膨大な数の神宝はすべて国宝に指定され、宗像大社神宝館に所蔵されている。上記写真の手前にあるものは、その一部。もちろんすべて国宝である。


 五郎山古墳装飾壁画(レプリカ)。五郎山古墳は、うちの近所にある。径約35メートルの円墳。1947年に発見され、2年後に国の史跡に指定された。

 壁画は、人物、動物、船、家など具象画で構成されているという(筑紫野市HP)。筑紫野市HPは具象画だというのであるが、この画を見るとミロの抽象画を思い浮かべてしまう。


 大宰府政庁跡の鬼瓦。国宝。左下側がななめに失われている。残念ながらではない。失われたからこそ美しく感じる。ミロのビーナスだって、腕が失われたからこそ美しい。

 

 大宰府政庁跡南門復元模型。常設展の入り口に展示している。

 「光る君へ」で、まひろは大宰府政庁を訪れた。刀伊の入寇、藤原隆家(道長のライバル伊周の弟)によるその撃退などのエピソードをドラマに盛り込みたかったのだろう。が、まひろにとってはいささか強引な西下。でもおかげで当時の大宰府はかくあったろうというイメージはふくらんだ。


 現在の大宰府政庁跡。手前の石が南門の基壇跡。いつもは馴染んでいるのはこのような風景であるので、古代の活気ある政庁の雰囲気はイメージしづらいのである。

 一部が欠けた鬼瓦は、このような過去の繁栄とその後の喪失を端的に象徴している。


 常設展のあとは天満宮参拝。本殿改修中ゆえ仮殿参拝。仮殿も当初おぼえた違和感も消え、そこに植えられた草木が馴染むように、われわれのイメージにも馴染んだ。

 本殿改修後はすべて撤去されるのだろうか。いまや惜しい気がする。


 飛梅。

 東風吹かばにほひをこせよ梅花 主なしとて春を忘るな 菅原道真

 こう語りかけられた梅の木が主を慕って飛び来たったという。ことしは1か月遅れである。

 じつは週末東北の雪山行きを計画していたが、大雪予報となっているため断念。八甲田山の登山口酸ヶ湯は20日、12年ぶりの大雪で5メートルも積もったという。


 梅の花言葉「忍耐」。

2025年2月20日木曜日

「はにわ」展@九州国立博物館(3)多様性(ダイバーシティ)

 

 本展のハイライトは挂甲の武人たち。これは国宝2体が含まれていることからしても順当な選である。

 しかしなにがおもしろかったかと問われれば、人物埴輪たちの多様性だったと答えよう。武人たちは気品をかもしつつも類似の表現になってしまっていた。これにたいし武人たち以外の人物像は多様性にあふれていた。現代的な表現でもある。

 上の像がかぶる帽子は、中世ヨーロッパの宮廷道化師のよう。まじめな表情とのギャップが萌えポイントである。

 これなどは北欧風である。立派なヒゲをたくわえ、帽子はモミの木をデザインしたよう。「こんなところに展示されてしまって、困ったものよのう。」というつぶやきが聞こえてくる。

 中米インディオふう。マヤ文明展の写真といわれれば、なるほどと思ってしまうだろう。髪は天をつく怒髪ふうだが、表情は困惑ぎみ。

 こちらは小学校のときの友だち、Nくんにそっくり。当時流行った大魔神になりきっている。


 動作もさまざま。

 いちばん共感をおぼえたのはこれ。毎晩寝る前にストレットをしているのだが、まずやるのはこのストレッチ。肩甲骨がのびる。


 これもストレッチだろうか。この動作で肩甲骨がひらくような気がする(実際は左肩にかけているものがヒント)。


 礼儀?


 お茶出し?


 これは授乳にまちがいない。


 腕のしぐさもさまざま。

 はーい(もしくは、やぁ)。


 おーっ。


 あれっ?


 顔の表情もさまざま。沈思黙考、考え中。


 泣く。現代アニメにも採用されている。実際はタトゥーかも。


 こちらも。涙がまっすぐに流れていないので、ますますタトゥーかも。


 これは泣いているのにちがいなかろう。いま遺産分割事件で引き合いになっている相手方の弁護士にそっくり。


 結びは笑い。これは中世ヨーロッパの王様の薄笑い。顔の線はタトゥーだろうか。


 うへへ。


 いひひ。


 では、さようなら。