さらなる苦難はがさつな男たちだ。姫は大人になり、美人だと評判に。近在の男どもが押し寄せてくるが、姫とは釣り合いがとれない。やむをえず姫には差し障りがあってなどと誤魔かす。
近所の男衆はみなあきらめたけれども、肥後の監(げん)という男はあきらめが悪い。そこはやはり「もっこす」なわけである。ついに屋敷に乗り込んできて、強く結婚を迫る。歌なぞ詠んでみせるが、むさ苦しく田舎ぶりが甚だしい。
ことここに至っては一時の猶予も許されず、姫と乳母一家は九州を脱出。ほうほうのていで都にたどりつく。・・・
紫式部は九州には来ていないだろうから、書いてあることはすべて文字の上か耳学問だろう。読んでいてあれ?と思うことがある。
少弐といえども大宰府の役人であるから大宰府政庁の近くに住んでいたと思われる。しかし乳母らは肥前に住んでいたとある。
それでは基山あたりだろうか。大野城と基肄城は兄弟城であるから可能性はある。肥後の監が懸想したというのだから、熊本に近かったであろうし。
通勤はどうしたのだろう。いまなら自家用車かJRを利用して基山に住んでいる人が太宰府市役所に通勤しているかもしれない。しかし平安時代である。馬だろうか。
と思いながら読み進めると、九州脱出の段にこのような記述がある(引用はいつもの林望先生のもの)。
〈これでもう二度と、姉さまとは会えないかもしれない。・・・ここで何年も暮らしたとは言っても、どうしても見捨てがたいというほどの所でもないけれど・・・〉と妹は思う。けれども、あの松浦の宮の前の渚と、姉さんに別れるのだけは、何度も何度も、振り返り振り返りするほどに名残が惜しまれるのであった。・・・
などとある。松浦の宮とはいまの鏡神社だし、渚は虹ノ松原だろう。すくなくとも脱出の際、船出したのは唐津のようだ。さらに京都に戻ってからの話であるが、こうある。
この近くに、八幡の宮という神社がありますが、それは筑紫のほうでも、姫君がいつも参詣しては祈っておられた松浦の宮、そして筥崎の宮と、ご神体を同じくする社です。あの肥前を発って来るときも、松浦や筥崎の宮に、多くの願立てをなさっておいでであったし。・・・
すると肥前というのは唐津のことか。唐津からだと、大宰府まで通勤するには絶望的に遠いのだけれど。
さらに混乱させるのは筥崎の宮。基山から参拝するにも唐津から参拝するにもかなり距離がある。というわけで、姫らが住んでいた肥前がどこかは謎である。
平安時代の京都に住む紫式部が九州の地理に精通していないのはやむを得ない。現代のわれわれだって東北地方の地理については似たようなものだ。しかし読みながら、あれ?と思うのである。