登山口から1時間ほどで山頂である。257.4m。
鬼門、東北の方角。
手前左から斜めに横切っているのは九州縦貫自動車道(高速)。
奥に博多湾。右から志賀島、玄海島が見えている。その向こうは玄界灘、そして壱岐・対馬、朝鮮半島である(見えないが)。
福岡県筑紫野市にある「ちくし法律事務所」のブログです。
二日市温泉湯町から高速高架下を南西に入る。梅の花がかろうじて残っていた。
天智天皇の3年、釈祚蓮勅命により九州に一宇を建立しようと筑紫にくだった天皇に協力して、土地の豪族で藤原鎌足の子孫、藤原虎麿が七堂伽藍を建立、椿の木で薬師如来を刻んで安置したのが始まりという。
天智天皇が筑紫にくだったのは唐新羅と戦ったときのことだろうか。天智天皇の3年という年とあわない気がする。天智天皇は中大兄皇子のことで、かれは藤原鎌足とともに大化改新をなしとげたのであるから、藤原鎌足の子孫というのもどうなのだろう。
日本史上初の武家政権だったが、おごれるものは久しからず、あっけなく歴史から姿を消してしまった。
「平家物語」は有名な冒頭、平家の運命を沙羅双樹の花の色にたとえている。
沙羅双樹の花は、朝に開花し夕方には落下する一日花。はかない。無常。まさしく平家の運命のようである。
日本の寺院において沙羅の樹は、ナツツバキ(夏椿)をもってあてられている。ナツツバキは、読んで字のごとく、夏にツバキと似た花を咲かせる(ツバキの花期が冬~春であるのに対し)。
ただし、本場インドや中国の沙羅の樹は別物。これはやむを得ない。沙羅の樹の知識は日本の留学僧たちが持ち帰ったものだろう。
いまでいえば彼らは宗教学の学生だったかもしれないが、生物学の学生ではない。中国でこれが沙羅の樹だよと学んだものを、日本のナツツバキと混同してしまったのかもしれない。
ヒメシャラは、ヒメ・シャラである。ナツツバキの花より小ぶりな花を咲かせる。よってヒメ・シャラである。いまどきこのような命名をすると、男女平等理念との整合性を指摘されそうだ。
考えすぎかもしれないが、植物界における接頭辞には注意が必要だ。カラスザンショウ・カラスウリとか、イヌビワ・イヌマキとか。カラスやイヌなどの接頭辞がつくものは、本物に似ているが劣ったもの、人間のものではないというニュアンスが含まれているから。
沙羅、あるいは姫沙羅は、夏に花を咲かせるぐらいだから、落葉広葉樹・夏緑樹である。いまは葉を落としている。他の木々が暗色であるのに、ひとり褐色系で、しかもお肌つるつる。花がない季節でも目立つ。
幹のお肌がつるつるであるところはサルスベリやリョウブにも似ている。この樹をサルスベリと呼ぶ地方もあるようだ。
夏には花を咲かせるのであるが、実は花を見つけるのはむずかしい。高木であるし、夏には葉が茂っているから。落花をみて気づくことが多い。
ナツツバキの花言葉は、「愛らしさ」「はかない美しさ」「哀愁」。
金泉寺からは多良岳と西岳の稜線を乗り越して、西の越の斜面をくだる。立派なヒメシャラが急斜面で頑張っている。
多良岳~経ヶ岳は、佐賀と長崎の県境に位置する。多良岳は標高996m、経が岳は1076m。両者を含む大きな成層火山が著しく開析して現在の姿となったという。それだけ古い山の形だ。
登山口の中山キャンプ場を出発。谷が常緑樹林帯から落葉樹林帯に変わるころ、左手に山頂が見えた。春まだき、落葉樹は裸のままである。足もとには火山岩がごろごろ。安山岩だろうか。