2024年7月11日木曜日

新潟の旅(14)総集編

 

新潟の旅、なんと13回もつづいたので、結びに総集編を書いておこうと思う。日本史の教科書ふうに。

まずは、清津峡の成り立ちから。1500万年前、清津峡を含む新潟県全域は、東日本と西日本のまんなかであるフォッサマグナのなかにあり、海の底であった。海底火山の爆発がつづき、火山灰が数千メートルも降り積もり、緑色凝灰岩(グリーンタフ)が形成された。

700万年前、グリーンタフにマグマが貫入し、冷やされたマグマは柱状節理となった。

300万年前、フィリピン海プレートが大陸プレートに沈み込み、東西圧縮がはじまった。これにより、八海山やフォッサマグナ地域、それに佐渡島(大佐渡山脈、小佐渡山脈)が隆起した。

柱状節理はもろく崩れやすく、清津川の浸食により、清津峡が形成された。

縄文時代中期(5500-4400年前)、信濃川流域で火焔型土器がさかんにつくられた。

なお、漢の時代(紀元前206-紀元後220年)、七夕伝説が語られるようになった。

奈良時代、大伴家持(718ー785年)が七夕伝説を踏まえて、かささぎのの歌を詠んだ。

なお、養老元年(717年)越前の修験僧泰澄が白山に登って、白山神社を開山したという。

平安時代・延喜年代(901年~)、新潟市の白山神社が創建されたらしい。

鎌倉時代・承久3年(1221年)承久の乱に失敗し、ももしきやの歌を詠んだ順徳院は佐渡に流された。

文永8年(1271年)日蓮は、他宗を激しく口撃した罪で佐渡に流された。

室町時代・永享6年(1434年)世阿弥は、足利義政と折り合いが悪く佐渡に流された。


江戸時代・慶長6年(1601年)佐渡金山が徳川家康の所領となり、金北山で金脈が発見され、江戸幕府の重要な財源となった。


元禄2年(1689年)芭蕉はおくのほそ道の旅をおこない、越後路で荒海やの句を詠んだ。


明治初期から佐渡金山は官営となり、明治10年(1877年)様式技術による選鉱場ができた。


明治37年(1904年)から日露戦争がはじまった。月島軍曹の夫婦岩における回想場面はこのころのこと。


大正7年(1918年)斎藤家の四代斎藤喜十郎が別荘を建築した。2015年旧斎藤家別邸跡として国の名勝に指定された。

昭和23年(1948年)越後湯沢を舞台とする川端康成の小説『雪国』が刊行された。


昭和56年(1981年)日本において野生のトキが絶滅した。


平成8年(1996年)清津峡渓谷トンネルが開業した。


平成11年(1999年)「読書の楽しさと知る喜びを感じる」ことを目的に掲げて十日町情報館が開館。2013年の映画「図書館戦争」のロケ地にもなった。


平成12年(2000年)大地の芸術祭越後妻有アートトリエンナーレ第1回が開催された。

平成15年(2003年)第2回が開催され、それにあわせて十日町ステージ越後妻有交流館キナーレがグランドオープンした。2021年それを前身として越後妻有里山現代美術館 MonETの名称となった。


平成30年(2018年)大地の芸術祭第7回が開催され、その際、清津峡渓谷トンネルはマ・ヤンソンのアート作品として改修された。

※越後のことなのに、すぐに思い浮かぶ上杉謙信や景勝・直江兼続、田中角栄などの記述がない。かれらが文化活動に関与していなかったからなのか、たまたま訪れたところと関係がなかっただけなのか?

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