この所多太の神社に詣づ。実盛が甲・錦の切れあり。往昔、源氏に属せし時、義朝公より賜はらせたまふとかや。げにも平士のものにあらず。目庇より吹返しまで、菊唐草の彫りもの金をちりばめ、竜頭に鍬形を打つたり。実盛討死の後、木曾義仲願状に添へて、この社にこめられはべるよし。樋口の次郎が使ひせしことども、まのあたり縁起に見えたり。
むざんやな甲の下のきりぎりす
小松駅から南西に歩いて10分ほどいくと多太神社があります。多太神社には、斎藤実盛の兜が奉納されています。
実盛(真盛)といってピンとくる人はすくないと思います。平家物語の巻第七によると、「倶利伽羅落」の次が「篠原合戦」、その次が「真盛」となっています。
本ブログ「忠義を貫かないで名を残した、武藤資頼」で紹介したとおり、武藤資頼はもと平家がたでしたが、源平合戦時に源氏に鞍替えして、いまに名を残しました。
実盛はこの逆。本文にあるとおり、もと源氏がたで、源義朝(頼朝、義経の父)から立派な兜を賜りました。が、源平合戦のおりには平家がたに鞍替えし、主は平宗盛でした。
平家軍は、倶利迦羅峠の戦いで敗れたのち、小松ちかくの篠原まで後退し、ここでリベンジの戦いを挑みます。しかし、ここでも木曾義仲の軍に敗れてしまいます。
実盛は当時73歳、ここを死に所と考え、最期まで奮戦します。が、ついに討たれてしまいます。討たれたけれども、いまに名を残しました。なぜでしょう。
戦さのあと、武功を確認するため首実検を行います。その際、どうも実盛に似ているけれども若すぎる。樋口次郎であれば、よく知っているはずだと訊いてみると、「あなむざんやな斎藤別当にて候ひけるぞや」。
樋口次郎によると、実盛は日ごろ、60を過ぎていくさにのぞむ時は、白毛を染めていこうと言っていたとのこと。老武者とて人にあなどられるのも悔しいと言って。
ちかくの池で洗ってみると、たしかに毛染めは落ちて、白髪に戻ったのでした。やはり首は実盛のものでした。
この話は当時の人々や芭蕉を感動させました。平家物語では特に一章もうけられていますし、謡曲『実盛』にもなっています。
われわれも60を過ぎました。若い連中に老武者とてあなどられないようにする必要がありますね。いまのところ、髪を染める必要はないようですが。
木曾義仲は、子どものころ実盛の世話になり、また彼の心意気にも感じたのでしょう。本文にあるとおり、多太神社に兜と願状を奉納して、実盛の成仏を祈願しています。
芭蕉は樋口次郎の決め台詞「あなむざん」を借用して、むざんやなの句を詠んでいます。夏草やの句に似ていますね。
きりぎりすはいまのキリギリスではなく、コオロギのことです(写真はキリギリス)。あなややこし。
芭蕉は、実盛だけでなく、木曾義仲もだいすきです。義仲が最期に討たれた琵琶湖のちかくに、慰霊のための義仲寺があります。芭蕉は大阪で亡くなったのですが、じぶんも義仲寺にほうむってほしいと遺言をのこしました。そのため芭蕉も義仲寺に葬られています。
義仲寺にはもちろん芭蕉の木が植えられています。芭蕉はバナナに似ています、そして破れやすい葉を風に揺らしています。
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