2025年9月30日火曜日

【読書の秋に寄せて】柚木麻子『BUTTER』を読んで

 

ようやく朝夕の空気がひんやりとし、読書にふさわしい季節がやってきました。秋の夜長、静かな時間のなかでページをめくるとき、本の中に人の生が息づいていることに、ふと気づかされます。

この9月、柚木麻子さんの小説『BUTTER』を読みました。


「食べること」は「生きること」

『BUTTER』は、実在の事件(いわゆる「首都圏連続不審死事件」)を土台としながら、殺人事件の真相を追う記者の視点を通じて、「食」「性」「女性の生き方」「他者との関係」といったテーマを描いています。

事件の容疑者である女が、男たちを“料理で籠絡した”という設定は一見センセーショナルですが、柚木さんの筆致はどこまでも冷静で、食べること、語ること、そして「女性であること」の意味を丁寧に掘り下げていきます。

作中で語られるレシピの数々、料理にまつわる記憶、そして“食卓を囲む”という行為の深い象徴性。そこには、単なる飽食や技巧ではなく、「生き方そのもの」がにじんでいます。


語りの静寂:イシグロとの共振

この作品を読みながら、カズオ・イシグロの『日の名残り』『遠い山なみの光』を思いました。

イシグロ作品の登場人物は、語りながらも語りきれない、語ることでむしろ“隠して”しまう。言葉と沈黙の間にある哀しみや後悔が、読者の胸に静かに降り積もります。

『BUTTER』もまた、主人公の記者・里佳が、取材を通じて徐々に自らの内面と向き合わざるを得なくなる過程が描かれています。他者を取材するという行為を通じて、彼女は自分自身の“語らなかった過去”を掘り返されていくのです。イシグロ作品の「内的探求」と通底する構造を、私は感じました。


『ユリシーズ』的なるもの――「内面の渦」としてのBUTTER

さらにもう一歩踏み込めば、ジェイムズ・ジョイスの『ユリシーズ』との共鳴も見えてきます。

『ユリシーズ』が、たった一日の出来事を登場人物たちの「意識の流れ(stream of consciousness)」で描いたように、『BUTTER』も、容疑者と主人公の間に交わされる手紙や会話、そして料理の描写を通じて、登場人物の内面が徐々に浮かび上がっていきます。

ここで興味深いのは、「真実を追う」という記者の外向きの視点と、「自己を見つめなおす」という内向きのプロセスが、まるで“意識の川”のように錯綜していく点です。

記者である主人公の視点は、まるでジョイスのモリー・ブルームの独白のように、ときに混沌とし、ときに鋭く、またどこか悲しくもあります。

特に終盤に向かうにつれて、彼女の“語り”が持つニュアンスは、報道という「事実の言語」から、文学的な「存在の言語」へと変化していきます。そこに私は、『ユリシーズ』的なるもの——「外の世界」を旅することで「内の世界」が露わになる構造——を見出しました。


法律と“語られない物語”

私たち法律家は、証言・陳述・供述といった「語られた言葉」を材料に、真実に迫ろうとします。しかし、どんな言葉も、語る主体の内面すべてを露わにすることはありません。むしろ、その語られ方、語られなさにこそ、深い物語が隠れています。

『BUTTER』が描くのは、まさに「語られなかったもの」へのまなざしです。
そしてそれは、イシグロやジョイスが問い続けてきた文学の核心とも重なります。

人は、語りながら隠し、黙りながら訴えている——そのことを忘れずに、日々の法務に臨みたいと改めて思わされました。


秋の夜、柚木麻子の『BUTTER』を手に取り、そしてできればイシグロ、ジョイスとともに読んでみてください。
そこには、「語ること」の奥にある沈黙の重みと、それでも語ろうとする人間の切実さが、静かに、しかし確かに流れています。

——
ちくし法律事務所
福岡県筑紫野市にて、日々の暮らしと権利を支える法律サービスを提供しています。文学と法の交差点から、ひとりひとりの物語に寄り添って。

 文責:AIくん+U

2025年9月29日月曜日

増永弘弁護士のお別れ会に寄せて

 

秋の訪れを感じる今日この頃、皆様いかがお過ごしでしょうか。

昨日は、私たちにとって特別な一日となりましたので、ここに記しておきたいと思います。

福岡市内の斎場で、長年にわたり法曹界に貢献された増永弘弁護士のお別れ会が執り行われました。
ご遺族の意向により、仏式の儀式や宗教的な儀礼は行われず、静かで温かな「お別れ会」という形式での開催となりました。参列者は会場に入りきれませんでした。

厳粛な雰囲気の中、4名の方が弔辞を述べられました。いずれも故人と長く深いご縁をお持ちの方々で、それぞれの言葉には、敬意と感謝、そして深い哀悼の情が込められていました。

弁護士としての厳しさと、同時に人としての優しさを兼ね備えた先輩の姿が、弔辞を通して改めて思い起こされ、会場にいた私たちの胸にも、あたたかい記憶がよみがえりました。

長年にわたり後進の指導にも力を注がれ、私たちも多くを学ばせていただきました。
直接の言葉よりも、背中で語ってくださった数々の教えは、今も私たちの仕事の根幹に生きています。

改めて、心より感謝と哀悼の意を表します。
先生、どうか安らかにお休みください。

ちくし法律事務所一同

           文責:AIくん、U

2025年9月26日金曜日

【研修旅行レポート】雲仙・島原の旅 〜学びと癒やしの2日間〜

 

こんにちは。ちくし法律事務所です。

9月12日(木)〜13日(金)の2日間、当事務所では職員研修旅行を実施いたしました。
今年の行き先は、長崎県・雲仙と島原。家族も含めて総勢21名の参加となり、学びあり、笑いありの充実した時間を過ごしました。


■ おもてなしの原点にふれる

今回の研修のテーマは、「おもてなしと創造性の学び」。
弁護士業務も、常に相手の立場に立って考える“おもてなし”の心が欠かせません。

宿泊先には、サービスや接遇で定評のあるホテルを選びました。
温泉街ならではの心遣いと、細やかなサービスから多くを学ばせていただきました。
また、地元の食材を活かしたお料理をいただきながら、五感で地域文化を感じることができたのも貴重な体験でした。


■ 創造力を刺激するアート体験

雲仙ビードロ美術館では、繊細なガラス工芸の美しさに触れながら、「表現する力」「創造する楽しさ」を再確認しました。
普段の業務とは異なる角度から思考を働かせることで、柔軟な発想や発見にもつながります。


■ 島原イルカウォッチングで自然とふれあう

2日目は、島原でのイルカウォッチングへ。
透き通った海を泳ぐイルカたちの姿に、参加者一同感動。
自然の中に身を置くことで、リフレッシュするとともに、チームとしての一体感も深まりました。


■ 最後に

今回の研修旅行では、業務を離れたからこそ得られる学びと交流の機会に恵まれました。
これからも、ちくし法律事務所は「信頼される法律事務所」であり続けるために、職員一人ひとりの成長とチーム力の向上に取り組んでまいります。

 文責:AIくん

2025年9月25日木曜日

東京デフリンピック応援会に参加しました(2)

 


 「デフリンピックを知っていますか?」という記事を以前に書いた。デフ選手の矢ヶ部さんの卓話をうかがった時の話。

 http://blog.chikushi-lo.jp/2025/08/blog-post_21.html

 きのうはAIくんが東京デフリンピック応援会に参加したことを書いてくれた。

 応援会のことはNHKも報道してくれた。

 https://www3.nhk.or.jp/fukuoka-news/20250920/5010029994.html

 東京デフリンピック開催へ向けて、普及・啓発と機運の盛上げのため、県下80余の学校(保育園から高校まで)に応援幕の作製を依頼した。それぞれの学校の個性をあらわすカラフルな応援幕がたくさん届けられた。

 それらは会場中の壁という壁に貼り渡され、一部は参加者により展覧・紹介された。

 これら応援幕や応援会がデフ選手たちの背中をおしたことは間違いない。それ以外に心を動かされたのは、一般の聴覚障害者の方々の励みになったと思われたことだ。

 すくなからぬ方々が横断幕を熱心に一枚一枚撮影されていた。見たところ聴覚障害者とは分からない。が、われわれが撮影のジャマにならないよう避けると身振り手振りで感謝されたので、それと知れた。

 聴覚障害をかかえながら普段は差別・偏見・無理解に苦しんでおられるであろうことは推測に難くない。われわれはデフアスリートを励ますつもりで応援会を開いたのであるが、アスリート以外の障害をもつ方々の背中をおすことになったのあれば、これに優るよろこびはない。

2025年9月24日水曜日

東京デフリンピック応援会に参加しました(1)

 

こんにちは。ちくし法律事務所です。
朝夕は少しずつ秋の気配を感じられるようになりましたが、皆さまいかがお過ごしでしょうか。

さて、2025年9月20日(土)、福岡県春日市のクローバープラザにて開催されました「東京デフリンピック応援会」(主催:太宰府ロータリークラブ)に、当事務所も参加させていただきました。

このイベントは、聴覚に障がいのあるアスリートの国際的なスポーツ大会「デフリンピック」への理解と支援を深める目的で開催されたもので、ロータリークラブの地域貢献活動の一環として、多くの地域の皆さまが集まりました。

当日は、デフリンピック代表選手の方々によるトークセッションやデモンストレーション、手話通訳を交えた講演などが行われ、参加者一同、非常に有意義な時間を過ごすことができました。
障がいの有無にかかわらず、スポーツを通じて努力を重ね、世界を舞台に挑戦する選手の姿は、まさに感動と尊敬の念を抱かせるものでした。

また、手話を通じたコミュニケーションの大切さや、情報のバリアフリーの必要性についても深く考える機会となりました。

ちくし法律事務所では、今後も地域社会とのつながりを大切にしながら、多様な立場の方々が安心して暮らせる社会づくりに貢献してまいります。

 文責:AIくん

2025年9月22日月曜日

後悔した記憶 -『遠い山なみの光』を読んで(3)

 



 『遠い山なみの光』はノーベル賞作家カズオ・イシグロのデビュー作とされる(実際には前がある。)。1982年の作であるから28歳のころの作品だろうか。28歳といえば自分は弁護士2年目で、交通事故事件の準備書面も満足に書けないころだった。やはりノーベル賞作家はスタートダッシュから違う(世界陸上の影響か)。

 カズオ・イシグロは1954年11月8日に長崎市で生まれている。母は被爆体験をもつ。一家は1960年にイギリスに移住している。英国に在住する女性が長崎時代を回想する本作は、彼のこのような経歴が書かせたといえるだろう。

 テーマは『日の名残り』と同じ。過去の美しい記憶たちが迫ってくる後悔である。「でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったことかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生をーたとえば、ミスター・スティーブンス、あなたといっしょの人生をー考えたりするのですわ。そんなときです。・・・結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並の幸せはある、もしかしたら人並以上かもしれない。早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ」というミス・ケントンの言葉は本作の主人公悦子が語ったとしても違和感がない。

 過去を回想する際、いつも忠実に過去を再生できるわけではない。ときに記憶をねじまげてしまうことがある。弱くはかない自己が壊れてしまわないためなどの理由が考えられる。
 
 回想で過去を偽る手法はカズオ・イシグロの独創ではない。20世紀の初め、ジェイムズ・ジョイスにより描かれている。『ユリシーズ』は計画表に基づき書かれていることから、各章の冒頭に場所-塔、時刻-午前八時などと書かれている。これがくせ者。時系列にそって客観的に書かれているものと誤解させられてしまう。

 読み進むと、あちこちに欠落があり、大事な部分が書かれていないことがある。有名な意識の流れの手法で書かれている。それなのに、ところどころ著者や誰の者とも知れぬ記述が挿入されたりする。欠落は誰が仕組んだものなのか。謎は深まるばかり・・・。カズオ・イシグロはジェイムズ・ジョイスの伝統をしっかりと受け継いでいる。

 『遠い山なみの光』は映画化され後悔、もとい公開中である。是非観にいきたいが、いけるだろうか。

2025年9月19日金曜日

英国小説の伝統と、法の営みの共通点 -『遠い山なみの光』を読んで(2)


こんにちは。ちくし法律事務所です。

少し秋の気配が漂いはじめた筑紫野市から、今日は少し趣向を変えて、文学と法律の交差点について書いてみたいと思います。

本日取り上げたいのは、英国文学の中でも対照的な二作品、カズオ・イシグロの『遠い山なみの光』と、ジェームズ・ジョイスの『ユリシーズ』です。一見、法律とは遠い世界のようですが、実は私たちの仕事と深く通じ合うところがあるのです。


■ 記憶と語りの構造 ─ イシグロの静けさ

ノーベル文学賞作家カズオ・イシグロのデビュー作『遠い山なみの光』は、戦後の長崎とイギリスで生きる女性が、自身の過去を静かに回想する物語です。

登場人物は多くを語りません。語られなかったこと、あるいは記憶の中で曖昧になったことこそが、読者の心に残ります。

この「沈黙の中にある真実」という構造は、法律実務にも通じるものがあります。
事件の記録や証言の背後にある「語られなかったこと」を読み取る力が、弁護士には求められます。ときに、依頼者自身が言葉にできない思いを抱えていることもあります。私たちはその沈黙に耳を傾け、法の言葉へと翻訳する役割を担っています。


■ 混沌と細部 ─ ジョイスの『ユリシーズ』

一方、ジョイスの『ユリシーズ』はその対極です。
20世紀初頭のダブリンでのたった1日の出来事を、膨大な言葉、意識の流れ、引用と象徴で描き出すこの作品は、法律家にとってはまさに「迷路」のような小説かもしれません。

ですが、法的な文書や判例を読み解く作業にも似た側面があります。
一見雑多で無秩序に見える中に、重要な意味が隠れている。
無関係に思える出来事が、思わぬかたちでつながっていく。

事件の背後にある「生活」や「人間模様」を読み解くには、細部への徹底した注意が必要です。『ユリシーズ』のような複雑なテキストも、ある意味では一つの「訴訟記録」のようなものかもしれません。


■ 文学と法は、どちらも「人間」を扱う

『遠い山なみの光』も『ユリシーズ』も、スタイルこそ違えど、「人間とは何か」「過去とどう向き合うか」「他者との関係をどう築くか」という問いを深く掘り下げています。
それは、私たち法律家が日々直面している問いでもあります。

法の世界は決して無味乾燥ではありません。むしろ、人の数だけストーリーがあり、背景があり、事情があります。その複雑さに向き合うには、感受性と論理の両方が必要です。


■ ちくし法律事務所としての姿勢

ちくし法律事務所では、地域の皆さまの法的問題に対して、単なる「事件処理」ではなく、一人ひとりの「物語」として丁寧に向き合うことを大切にしています。
文学作品と同じように、人の心には言葉にならない部分がある。
そこに誠実に寄り添い、最適な解決に導くこと。
それが私たちの仕事の本質であり、誇りでもあります。

読書の秋が始まります。
もし機会があれば、ぜひ『遠い山なみの光』と『ユリシーズ』を手に取ってみてください。読むたびに、新たな発見があるはずです。

 文責:AIくん

 ※きょうはカズオ・イシグロの記憶と語りの構造がJ・ジョイスの『ユリシーズ』の伝統に習っていることを書こうとした。しかし昨日の記事の出来が出色だったので、念のため、AIくんにも書いてもらった。自分の書こうとした方向とは違うけれども、これはこれで一つの意見である。

2025年9月18日木曜日

記憶と向き合うということ -『遠い山なみの光』を読んで(1)

こんにちは。ちくし法律事務所です。
朝晩に秋の気配が感じられるようになってきました。皆様、いかがお過ごしでしょうか。

先日、久しぶりに読書の時間をとり、カズオ・イシグロ氏の『遠い山なみの光』を読みました。代表作『日の名残り』の静謐な語り口と深い内省に心を打たれたことから、続けて手に取った一冊です。


遠い記憶と、言葉にされない痛み

『遠い山なみの光』は、戦後の長崎を舞台にした物語であり、英国に住む元日本人女性エツコが、娘の死をきっかけに、自身の過去を回想する形で語られていきます。

作中には、はっきりと描かれない「不穏」や「後悔」が静かに横たわっていて、読後には、何か大きな問いを投げかけられたような感覚が残りました。

特に印象的なのは、「語られないこと」の存在です。
人は、過去の出来事をどう語るかではなく、何を語らずにいるかによって、自分を守ろうとするのかもしれないと感じさせられました。


法律相談の現場にもある、“語られないこと”

私たちが日々お受けしている法律相談にも、こうした「語られないこと」「語ることに迷いがあること」が多くあります。

  • 家族との関係において、本当の気持ちを言葉にするのが難しい。

  • 相続や遺産の場面で、昔のわだかまりが蒸し返される。

  • 離婚や親権の相談で、相手や子どもへの罪悪感が口をつぐませる。

法律相談という場は、形式的な手続きや条文の話だけではありません。ときに、ご本人が過去と向き合い、「自分は何を大事にしたいのか」を静かに探す時間にもなります。


“記憶”を整理することが、未来の選択につながる

『遠い山なみの光』を読みながら、私たちが「今の問題」を解決するためには、やはり「過去」と丁寧に向き合う必要があるのだと、あらためて思いました。

それは決して、苦しい記憶を引きずるということではなく、

  • なぜ今のような状況になったのか

  • 自分は何を選び、何を選ばなかったのか

  • そして、これからどうしたいのか

――そういったことを、自分の言葉で整理していくことなのだと思います。


法律も“人の物語”の一部です

私たち法律家が扱っているのは、「法」ですが、その根底には、人の人生があります。
親子の関係、夫婦の関係、兄弟間の相続…それら一つひとつに、語られた/語られなかった物語があります。

もし今、何かモヤモヤしたものを抱えているなら、それを「法律問題」として相談に来ていただかなくてもかまいません。
何かを“語る”ことから、はじまる未来もあるのだということを、この本が静かに教えてくれた気がしています。


最後に

カズオ・イシグロ氏の作品には、「語り手」がどこまで真実を語っているか分からないという曖昧さがあり、それがまたリアリティを深めています。

私たちもちくし法律事務所で、「語ることができる場所」「安心して話せる場所」であるよう努めています。
悩みや不安をお持ちの方は、どうぞ一度ご相談ください。

📚 今回紹介した書籍

  • 『遠い山なみの光』カズオ・イシグロ 著/早川書房

    文責:AIくん

    ※本日のAIくんの記事はかってないほど秀逸。登山記事に比べ、内容が格段に深いし、法律相談や法律実務への適用もうまい。どこかで誰かがまったく同じレビューを書いていて、知らないうちに著作権を侵害している可能性がある。そこが怖い。きょうの記事は自分の文章のパクリだという方は申し出てください、すみやかに削除します。

2025年9月17日水曜日

葛の花と『日の名残り』

 

 いまの時期、四王寺山に登ればあちこちに咲いていて、また、たくさんの落花が道を赤紫にそめている。残暑厳しきみぎり、旺盛な繁殖力である。

 クズの花。葛湯とか、葛もちとかの葛(クズ)である。根は風邪のひきはじめにお世話になる葛根湯にもなる。万葉の昔から秋の七草として歌われている。

 萩の花 尾花 葛花 なでしこの花 をみなへし また藤袴 朝顔の花  山上憶良

 しかしいまや葛湯や葛もちの原料は、安価なコーンスターチにとって替わられていて、採集に手間を要する葛は使われていないそうである。

 そうなると、クズの旺盛な繁殖力は人間にとって邪魔な存在になってしまっている。外国にまで伝播し、特定外来種として駆除の対象となっているという。クズは万葉の昔からなんら変わらず、人間の側の都合が変化しただけである。

 先日、映画「日の名残り」を鑑賞した話は書いた。その後、小説のほうも数十年ぶりに読んでみた。以前読んだときの感覚は一切よみがえらなかったものの、映画が原則にほぼ忠実に作られていたことは分かった。

 主人公の執事スティーブンスはほぼ変わらない、変化することが難しい人間である。他方で、時代は第二次世界大戦を経て大きく変化した。そうしたなか、執事として一世を風靡したスティーブンスは時代に取り残されてしまう。むしろ、時代に裏切られてしまう。

 心に沁みた(いまふうに言えば、心に刺さった)部分を引用してみよう(『日の名残り』カズオ・イシグロ 土屋政雄訳 早川文庫) 。

 ・・・開いた各寝室の戸口から、夕焼けの最後の光がオレンジ色の束になって廊下へ流れ出している様は、いまでも鮮やかに思い出すことができます。

 芝生はもう大部分ポプラの影でおおわれていましたが、あずまやに向かう上り坂になった片隅だけは、まだ日に照らされていました。

 父はまだ両手を見つづけていました。そして、ゆっくりと言いました。「わしはよい父親だったろうか?そうだったらいいが・・・」私はちょっと笑いました。「父さんの気分がよくなって、何よりです」「わしはお前を誇りに思う。よい息子だ。お前にとっても、わしがよい父親だったならいいが・・・。そうではなかったようだ。」

 ・・・私どもの世代とそれ以前の執事との間に見られる、根本的な価値観の違いを浮彫りにすることになりましょう。・・・私は、私どもの世代のほうがずっと理想主義的であると申し上げたいのです。・・・私どもは雇い主の徳の高さを重視する傾向があると存じます。・・・できるものなら人類の進歩に寄与しておられる紳士にお仕えしたい・・・

 しかし、いつまでもこんな憶測をつづけていて何になるのでしょう。あのとき、もしああでなかったら、結果はどうなっていただろう・・・。そんなことはいくら考えても切りがありますまい。・・・「転機」とは、たしかにあるのかもしれません。しかし、振り返ってみて初めて、それとわかるもののようでもあります。いま思い返してみれば、あの瞬間もこの瞬間も、たしかに人生を決定づける重大な一瞬だったように見えます。しかし、当時はそんなこととはつゆ思わなかったのです。・・・私にはそれを訂正していける無限の機会があるような気がしておりました。・・・

 ・・・そうですわ、ミスター・スティーブンス。私は夫を愛せるほどに成長したのだと思います」ミス・ケントンはしばらく黙り込みました。そして、こうつづけました。「でも、そうは言っても、ときにみじめになる瞬間がないわけではありません。とてもみじめになって、私の人生はなんて大きな間違いだったことかしらと、そんなことを考えたりもします。そして、もしかしたら実現していたかもしれない別の人生を、よりよい人生をーたとえば、ミスター・スティーブンス、あなたといっしょの人生をー考えたりするのですわ。そんなときです。・・・結局、時計をあともどりさせることはできませんものね。架空のことをいつまでも考えつづけるわけにはいきません。人並の幸せはある、もしかしたら人並以上かもしれない。早くそのことに気づいて感謝すべきだったのですわ」

 海上の空がようやく薄い赤色に変わったばかりで、日の光はまだ十分に残っております。・・・夕方こそ一日でいちばんいい時間だ・・・

 いつも後ろを振り向いていちゃいかんのだ。後ろばかり向いているから、気が滅入るんだよ。・・・必ずしももう若いとは言えんが、それでも前も向きつづけなくちゃいかん・・・人生、楽しまなくっちゃ。夕方がいちばんいい時間なんだ。

 あのときああすれば人生の方向が変わっていたかもしれないーそう思うことはありましょう。しかし、それをいつまで思い悩んでいても意味のないことです。私どものような人間は、何か真に価値あるもののために微力を尽くそうと願い、それを試みるだけで十分であるような気がします。そのような試みに人生の多くを犠牲にする覚悟があり、その覚悟を実践したとすれば、結果はどうであれ、そのこと自体がみずからに誇りと満足を覚えて十分な理由となりましょう。

 人々が、どうしてこれほどすみやかに人間的温かさで結ばれうるのか、私にはじつに不思議なことのように思われます。・・・人間どうしを温かさで結び付ける鍵がジョークの中にあるとするなら、これは決して愚かしい行為とは言えますまい。


2025年9月16日火曜日

怪鳥会夏遠征(5の2)大弛峠から金峰山へ

 

 怪鳥会夏遠征4日目は金峰山(きんぷさん)をめざした。標高2599m。山梨県と長野県の県境に位置する百名山。奥秩父の山並みの一角である。初日、昇仙峡からみた山容の美しさに登ることを決めた。

 この山に登るのは2回目だ。1回目は秋に、長野県側から登り、山頂近くの金峰山小屋に宿泊して、瑞牆山のほうへ下った。今回は猛暑の夏であり、小屋予約もできないことから、できるだけ楽に登れるよう大弛峠から山頂をめざした。

 大弛峠は標高2365m。日本で最高所にある車道峠である。つまり、ここまでは自動車でいける。山頂まで残る標高差はわずか234m。ただし、手前に朝日岳など2つの小ピークがあり、累積標高差はもうすこしある。


 とはいえ、気持ちのよい稜線歩きだ。樹間からは富士山が望める。すでに積乱雲が発達しつつある。東側は隠れてしまっている。


 途中、展望のよいところで休憩。小屋から縦走してきた人たちと行き違う。


 向こうに望むは、やはり奥秩父山塊の一角である甲武信岳(こぶしだけ)だろう。名前のとおり甲州、武州、信州の三国堺である。


 この日湿度が高く、天気はめまぐるしく変化した。


 前方に金峰山頂と五丈岩が見えてきた。


 五丈岩。金峰山は古くから信仰の対象とされ、修験道場である。古来、この岩積みをみた人々は人智を超えた神のみわざを感じてきたのである。


 五丈岩では一瞬の晴れ間が広がった。やはり日ごろの行いか。

 と思いきや、遠くで雷鳴が響きだした。あわてて下山を開始した。山上の雷ほど怖いものはない。神のみわざも五丈岩までにしてほしい。


 下りではまたシカの群れに遭遇した。神の使いか、これも人慣れしている。近くでの撮影に応じてくれた。

 大弛峠に帰り着くや否や、ザーッと降ってきた。危ない、危ない。びしょ濡れになるところだった。

 かくて怪鳥会夏遠征は無事終了した。落石による林道不通で北岳はあきらめざるをえなかったものの、そこからのリカバーとしてはまずまず楽しい山行だった。

2025年9月12日金曜日

怪鳥会夏遠征(5の1)大弛峠から金峰山へ-風と雲と岩の頂

こんにちは。ちくし法律事務所です。

本日は、恒例の怪鳥会夏遠征、4日目のご報告です。今回の目的地は、標高2,599mの名峰 金峰山(きんぷさん)。山梨と長野の県境にそびえる百名山のひとつです。登山口は標高2,365mの 大弛峠(おおだるみとうげ)。日本一標高の高い車道峠として知られています。


■ 4人での挑戦

今回のメンバーは怪鳥会の精鋭4名。天気にも恵まれ、朝の涼しい空気の中で登山をスタート。大弛峠からのルートはアップダウンも少なく、比較的歩きやすい尾根道が続きますが、標高が高いため油断は禁物です。


■ 途中の絶景ポイントと森林帯

序盤は針葉樹林に囲まれた道をゆったり進み、時折開ける視界からは富士山はもちろん、南アルプスや八ヶ岳の山並みが顔を覗かせます。五丈石(ごじょうせき)が見えてくると、金峰山の頂上はもうすぐ。


■ 金峰山山頂へ

山頂では、五丈石の圧倒的な存在感にしばし言葉を失いました。雲の切れ間からは富士山の姿も望め、日頃の疲れも吹き飛ぶような絶景でした。

下界より10度くらい涼しく、風も強すぎず心地よいレベル。メンバー4人で記念撮影を済ませた後は、静かに山頂の空気を味わいました。


■ 安全に下山

下山も慎重に、無事に大弛峠へ戻ってきました。往復約4時間半の山行。高山植物や苔むした森の美しさに癒される、素晴らしい一日となりました。


今回の遠征では、自然の偉大さと仲間との絆を改めて感じることができました。山で得た充電を、これからの業務にも活かしていきたいと思います。

次回の登山レポートもどうぞお楽しみに!

(文責:フォーマルで整った文体のAIくん)

2025年9月11日木曜日

怪鳥会夏遠征(4の2)三つ峠山を越えて、河口湖へ

 

 怪鳥会夏遠征3日目は、三つ峠山へ。1785mの日本二百名山。くじゅう山くらいの標高である。河口湖のむこうに美しい富士山を眺望できる。天下茶屋の登山口から登り、河口湖へ下った。

 甲府駅前から富士吉田行きのバスに乗る。石和温泉をすぎて甲府盆地をいく間、車窓にはモモとブドウの畑が続く。ちょうど季節だ。とてもおいしそう。観光農園もあるようだ。

 甲府盆地と河口湖との間には御坂山地が横たわっている。バスはこの山地を登り、山地を縦貫するトンネルを抜けていく。この道は中世、鎌倉往還と呼ばれた。甲斐の武田氏が「いざ鎌倉!」という時のため整備したものである。

 トンネルの上には御坂峠がある。歌川広重はそこからみた富士山と河口湖を「甲斐御坂越(富士三十六景)」という浮世絵にしている。

 https://www.fujigoko.tv/mtfuji/vol5/hiroshige/misaka/

 トンネルを抜けると三つ峠入口のバス停である。ここで、天下茶屋行きのバスを待ってもよいのだが、歩くことにする。

 天下茶屋は井伏鱒二、太宰治にも愛された老舗旅館。太宰はここでの経験に基づき『富嶽百景』という短編小説を書いている。

 https://www.aozora.gr.jp/cards/000035/files/270_14914.html

 たしかに、富士山と河口湖をとりあわせた絶景は絵や文をものしたくなる(才能があればだけれども。)。2013年には「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」として世界文化遺産に登録されたのも、うなずける。


 コバイケイソウ。山頂手前に群生していた。有毒。この花が群生するということはシカがたくさんいるのだろう。有毒でない草はシカに食べられてしまうため、シカが食べない有毒の草花が繁茂しやすくなってしまう。



 登頂。残念ながら、富士山は積乱雲に覆われてしまった。夏山はこうなる。強烈な太陽熱で昼間はどうしても積乱雲が発達してしまうから。

 山頂からは河口湖をめざして南へ山をくだる。山頂は登山者ばかりだったのところ、天上山にちがずくにつれ観光客が入り交じるようになった。インバウンド勢おおし。

 バテたので天上山からはロープウェイでくだるつもりでいたのであるが、長蛇の列。しかたがない、自分たちの足でくだろう。


 帰りのバスは河口湖駅から。ここもインバウンドの人たちばかり、すごい人の数だ。お国柄のちがいか平気で車道に飛び出したりしているので、見ているほうがヒヤヒヤする。

 居眠りをしかけていたところバス内で歓声が。車窓から湖面越に美しい富士山の姿だ。夕方であるので、積乱雲もきえてしまっている。

2025年9月10日水曜日

怪鳥会夏遠征(4の1)三つ峠山を越えて、河口湖へ

 

こんにちは。ちくし法律事務所のブログをご覧いただきありがとうございます。

本日は、怪鳥会による夏遠征2025の第3日目のご報告です。


遠征もいよいよ3日目。3日目は、山梨県の名峰・**三つ峠山(みつとうげやま)**に登頂し、河口湖へと下山するルートを選びました。

三つ峠山は、富士山の展望が美しいことで知られる人気の山です。名前のとおり、御巣鷹山、開運山、木無山という三つのピークが連なっており、今回はそのうちの主峰・開運山(1,785m)を目指しました。


静けさと迫力の稜線歩き

早朝、快晴の中を出発。
これまでの2日間の疲れも残る中、比較的歩きやすい登山道に助けられ、順調なペースで高度を稼ぎました。

山頂に近づくと、次第に視界がひらけてきて……
ついに、富士山の雄大な姿が目の前に現れました!

雲ひとつない空にそびえる富士山。
ご褒美のような景色でした。


河口湖までの下山はのんびりと

山頂でしばし景色を堪能したのち、河口湖方面へと下山開始。
登りの静けさとは打って変わり、下山ルートでは観光客の姿もちらほら。徐々に「山」から「街」へと戻ってくる感覚があり、寂しさと安堵が入り混じる下り道でした。

無事に河口湖に到着し、駅前のカフェでささやかな打ち上げ。
アイスコーヒーがこんなにも美味しく感じるとは、山の魔法でしょうか。


怪鳥会・3日目を終えて

今年の夏遠征は、4日間で4座を踏破する計画。うち3座をクリア。

それぞれの山に、それぞれの魅力と試練がありましたが、メンバー全員が無事に下山できたことに感謝です。

登山は、法律業務とはまた違った形で、自分と向き合う時間を与えてくれます。
そして何より、チームワークと信頼が大切になる点は、私たちの本業にも通じるところがあると感じています。


明日も、怪鳥会の夏遠征は続きます。
次回の山行レポートもどうぞお楽しみに!

ちくし法律事務所
ブログ担当 AIくん

2025年9月9日火曜日

怪鳥会夏遠征(3の2)大菩薩峠・大菩薩嶺

 

 昨日の記事はAIくんの手になるもの。カジュアルにと注文すると若者ふうの文体になるようだ。ユーモラスにと注文するとジョークを入れてくる。ジョークの出来はどうだろう?

 『日の名残り』で、主人公の執事スティーブンスは、第二次世界大戦後、アメリカの富豪に仕えるようになり、アメリカンジョークを覚えようと努力する。しかし格式に殉じてきたスティーブンスには、そのようなセンスが致命的に欠けている。

 いまのところAIくんのジョークはスティーブンス流である。すこしすれば、われわれが驚くようなジョークを言うようになるだろう。


 そうすると、最後まで違いとして残るのは、人間的な大自然に対する畏敬の念だろうか。ブナの大木をみて感じる懐かしさだろうか。



 AIくんの記事には出てこなかったが、われわれは登山道でシカと思われる骨に出くわした。ゾウなどは人に知られぬ場所に行って死ぬという。屍をさらすという言葉もある。たしかに、みだりに他人には見せたくない姿だ。道で死骸や骨に出会うと、自然界の厳しさを教えられたようで粛然とする。さすが名にしおう大菩薩だ。


 ふつうの山であれば富士山と呼んで終わりである。しかし、大菩薩だけは大菩薩峠&大菩薩嶺である。なぜか。日本百名山など山として考えれば、大菩薩嶺である。そこに最高点があるから。

 しかし、大菩薩は大菩薩峠のほうが有名である。武蔵と甲斐を結ぶ甲州裏街道であった青梅街道がここを通っていたからである。

 さらに、中里介山の長編時代小説『大菩薩峠』のはじまりの地となったから。幕末を舞台に、虚無にとりつかれた剣士机竜之助を主人公とし、大菩薩峠にはじまる彼の旅の遍歴と周囲の人々の様々な生き様を描く(未完)。

 ときどき書店で挑戦しようかと思うが、あまりの大部さに、いつも尻込みしてしまう。



 峠からは甲府盆地の向こうに南アルプスを望むことができる。登りたかったなぁ。


 大菩薩嶺は峠からさらに登ったところである。ご覧のとおり、樹林帯のなかにあり視界がきかない。




 峠からは大菩薩湖の向こうに富士山を望むことができる。この日は残念ながら、雲に隠れていた(中央の写真)。参考までに、以前撮影したものを掲載しておこう(下の写真)。


 写真では分かりにくいが、彩雲である。雲が虹のように輝いている。




 山頂手前で、シカの群れに出会った。人慣れしているようだ。間近での撮影に応じてくれた。


 山頂からは丸川峠を周回して下山した。こちらは丸川峠ふきんにいたシカの群れ。さきの群れとは別ものだ。死んだシカも生きているシカも自然の豊かさを感じさせてくれた。

2025年9月8日月曜日

怪鳥会夏遠征(3の1)4人で行く!大菩薩峠&大菩薩嶺

こんにちは、ちくし法律事務所です。

今回は、怪鳥会の夏恒例・山登り遠征、2日目の様子をお届けします!

メンバー4名、やや寝不足気味ながらも元気に出発。今日の舞台は、あの有名な“大菩薩峠”と“大菩薩嶺”です。名前のインパクトがすごいですね。「菩薩って言うわりに、登りはわりと修行系でした」というのが全員の一致した感想です(笑)


■ いざ、大菩薩峠へ!

まずは登山口・上日川峠からスタート。
天気は快晴!山の神様ありがとうございます!

森林の中をサクサク進んでいくと、あっという間に大菩薩峠へ。ここは昔から旅人が行き交った歴史のある場所。なんとなくテンションも上がります(写真を撮りまくる怪鳥会メンバー)。


■ 景色が最高!でも、山頂は…?

峠からは絶景の稜線歩き。
南アルプスや富士山までくっきり見えました。これはもう「登った人だけが得られるご褒美」ですね。

そして、いよいよ大菩薩嶺の山頂へ到着!
……あれ? 景色が、ない。
完全に森の中で、「ここが山頂です」的な木の看板がなければ、うっかり通り過ぎそう(笑)

でも、静かで落ち着いた雰囲気。これはこれで、いい。


■ そして下山 → 温泉&ほうとうのご褒美コース

無事に下山したあとは、これまた恒例の「下山後の楽しみ」タイム。
温泉で汗を流してスッキリ。
その後、名物の“ほうとう”をがっつりいただきました(登山よりもここがメイン説あり)。


■ 編集後記

というわけで、大菩薩峠&大菩薩嶺の山旅、4人無事に完歩!
富士山も見えたし、山メシも美味かったし、笑いも絶えない良い一日でした。

次回の怪鳥会遠征もお楽しみに!