2010年にスタートした当事務所のブログですが、どうやら1000投稿を超えたようです。
そろそろ1000投稿だなあ、1000投稿目には何を書こうかなあ、と密かに思っていましたが、いつの間にか通過していました。なんかくやしい。
よし、今から追加で1000投稿して記念すべき2000投稿目を寄稿することにします。
よーし、頑張るぞー。
富永
異世界みちのくに入り、芭蕉一行は須賀川の駅(宿場)に到着しました。300年後に私も芭蕉の足跡を慕い、東北本線・須賀川駅(ステーション)に到着しました。
街中に入るや、宇宙怪獣エレキングがあらわれました。キャー逃げろー。そこへウルトラセブンがあらわれ、怪獣を退治してくれました。パチパチ。
みちのくが異世界、異宇宙といっても、これは行き過ぎでしょう。ほんとうのことでしょうか。そういぶかりながら科学特捜隊がふきんを捜査していると、いくつかの事実が判明しました。
なんと須賀川は、ウルトラ一族が住んでいる「M78星雲 光の国」と姉妹都市なのだそうです。なぜそうなのか。どうも須賀川は円谷英二氏のふるさとらしい。
さらに須賀川には「すかがわ市M78光の町」という異次元の町が存在し、住民登録でき、住民票も発行されるらしい。あなたもぜひ登録してください。須賀川駅は宇宙ステーションでもあったのです。
芭蕉の風雅を求めてきた旅人にはびっくりな世界、芭蕉が求めた宇宙とは別の宇宙ですが、これもまた不易流行でしょう。
なんとか間にあいました。この記事を4月中に書きたかったのです。なぜか?本文を読んでくだされ。
関東と東北の境を守るのは白河の関です。かって東北地方は、あこがれの地であるとともに、生きて帰られるかどうかわからぬ土地でした。白河の関は、そのような地から来るものを阻むとともに、そこへ入っていくゲートでした。
白河の関を越えるには、決死の覚悟が必要でした。芭蕉は、おくのほそ道の冒頭で、春立てる霞の空に、白河の関越えんといちおうの覚悟は示しています。それでも関東を歩いているうちは、あれこれ迷いがあったようです。ですが、いよいよ白河の関に着いたとき、腹は固まりました。いわく。
心もとなき日数重なるままに、白河の関にかかりて旅心定まりぬ。
関所は物理的・地理的境界であるだけでなく、精神的・霊的な境界でもありました。境界というのは中央の王権のおよびにくい土地であり、霊的なものや魔物が出てきやすい場所だからです。
そのような場所で、芭蕉は「諸国一見の僧」(能のワキ)となり、先輩歌人たちの霊を次々と召喚します。
先ず召喚したのは平兼盛。10世紀の歌人で三十六歌仙の一人、赤染衛門の父です。彼がこの関で詠んだ歌は
たよりあらばいかで都へ告げやらむ 今日白河の関は越えぬと
この関は奥羽三関の一つにして、風騒の人が心をとどめました。次に召喚したのは能因法師。11世紀に活躍したやはり三十六歌仙の一人、旅の歌人で西行の先輩。彼が詠んだ歌は
都をば霞とともに立ちしかど 秋風ぞ吹く白河の関
第三に召喚したのは源頼政。12世紀保元・平治の乱で活躍した武将。能に『頼政』という曲があります。彼が詠んだ歌は
都にはまだ青葉にて見しかども 紅葉散り敷く白河の関
芭蕉たちが訪れたのは、青葉の梢があはれな時期でした。が、先輩歌人たちとその歌を次々と召喚することにより、芭蕉たちの耳には秋風が吹く音がし、眼前には紅葉散り敷く情景が広がりました。
第四、第五に召喚したのは竹田大夫国行、藤原清輔。藤原清輔は12世紀の歌人・歌学者。彼の歌論書『袋草子』に、竹田大夫国行がこの関を越えるときに、能因の歌に敬意を表して、冠をかぶり直し、衣服を着替えて通ったという話がありました。
これを踏まえた曽良の句は
卯の花をかざしに関の晴れ着かな
竹田大夫国行の故事にちなみ、この関を越えるときに、能因の歌に敬意を表して、冠をかぶり直し、衣服を着替えて通りたいものだ。残念ながら、そのような立派な衣装のもちあわせがないので、そこいらに咲いている卯の花を頭に刺し、これを飾りにして関を越えよう。卯の花は卯月(旧暦4月)に咲くから卯の花。
さて芭蕉が学ぼうとする諸先輩のうち最上の先輩は西行です。かれは武士出身で法師となり歌人であったばかりか、なにより旅人だったからです。おくのほそ道の有名な冒頭にも、西行を筆頭とする古人へのリスペクトはあきらかです。
月日は百代の過客にして、行き交ふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老いを迎ふる者は、日々旅にして、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり・・。
その西行もしばし立ち寄ったという遊行柳。昔の人の申し置きしは、鳥羽の院の北面、佐藤兵衛憲清出家し、西行と聞こえし歌人、この国に下りたまひしが、頃は水無月半ばなるに、この川岸の木の下に、しばし立ち寄りたまひつつ、一首を詠じたまひしなり(能『遊行柳』)。
道の辺に清水流るる柳かげ しばしとてこそ立ちどまりつれ
これを受けて、おくのほそ道の遊行柳の段。
清水流るるの柳は、蘆野の里にありて、田の畔に残る。この所の郡主戸部某の「この柳見せばや」など、をりをりにのたまひ聞こえたまふを、いづくのほどにやと思ひしを、今日この柳の陰にこそ立ち寄りはべりつれ。
そして、一句を詠じたまひしなり
田一枚植ゑて立ち去る柳かな
西行の立ちどまりつれをひきつぎ、立ち去って物語を完成させる芭蕉なのでした。
さあ、これでみちのくへの旅の準備は万全です。鏡のまえで装備の点検をする必要もありません。いざ出陣、もといいざ出発。
コロナ禍で、ZOOM会議とか、teamsとか、電話会議とか、増えましたよね。
在宅勤務が増えた、という方も多いのではないでしょうか。
オンラインだと、画面をオンにしても顔しか映らないから、上半身正装、下はパジャマ、なんて話もたまに聞きます笑
二日市にある当事務所としては、六本松の裁判所までわざわざ出かけることが少なくなったのはありがたいことです。
なんにしても、楽で便利、ということは間違いないと思います。
反面、移動が少ないのもあって、運動不足だな、と思います。
そうだ、剣道をしよう!と、これまで何度も思い立っては、結局行かず、ということを繰り返してきました。
「ちくし法律事務所」の日常: セキュリティは万全です? (chikushi-lo.jp)
かれこれ1年以上、やっていないです。
言い訳をすると、コロナ禍だと、道場や稽古会がそもそもやっていなかったり・・・ということもあります。
剣道ほど「ヤー」とか、「キエ―」とか、「メーン」とか、奇声を発して飛沫をとばす競技はありませんからね。
やるなら、感染症対策はしっかりと。
と、いうことで、面マスクを購入しました。
それが、こちら。
写真だと見えにくいですが、まず、面金の部分に、透明のアクリル板みたいなマウスガードが付いています。その下に、メッシュの黒いマスクを装着しています。
マスクに関しては、「通気性がよい」などと書いてあって、「え、だめじゃない?笑」とツッコミを入れていたのですが、装着して納得。
二重の感染防止策をとった上で、これでマスクの通気性が悪かったら、ハイシンデマス状態になります。
気を付けないと、感染症は防止できても、熱中症になりそうです。
何はともあれ、剣道再開の準備は万全!と、言いたいところですが、
ZOOM会議が多い影響でしょうか。まだ、こんな状態です。
富永
春秋戦国時代、百家争鳴といわれるほど思想家がたくさん輩出しました。困難な時代こそ、すぐれた人物が輩出するものなのでしょう。なかでも、いちばん有名なのは孔子ですね。孔子が道徳によって国を治める徳治主義を説いたのに対し、法による統治を説いたのが韓非です。われわれ法律家の大先輩です。
彼が書いた『韓非子』のなかに、こんな話がでてきます。
管仲は斉の総理大臣で、名宰相と言われました。敵国をやっつけて国へ帰ろうとしたら、雪で道が分からなくなり迷ってしまいました。そのとき、管仲はひとつ老馬に知恵を借りてみようと言い、老馬を放しました。その後について行ったところ、なんと道をみつけることができました。
このエピソードに基づく四字熟語が老馬乃智(ろうばのち)です。管仲ほどの賢人知恵者であっても、ときには老馬を先生として学ぶことを憚ってはならないという話です。
ここでも芭蕉はなにも語っていませんが、那須野の段の冒頭にはこのエピソードが下敷きとして踏まえられていると思います。そして、われわれに謙虚に学べと呼びかけているのではないでしょうか。甘美なる教えです。
柳の老人・・まづ先年遊行のおん下向の時も、古道とて昔の街道をおん通り候ひしなり、されば昔の道を教へ申さんとて、はるばるこれまで参りたり
遊行上人・・不思議やなさてはさきの遊行も、この道ならぬ古道を通りしことのありしよのう
柳の老人・・昔はこの道なくして、あれに見えたる一叢の、森のこなたの川岸を、お通りありし街道なり、そのうへ朽木の柳とて名木あり・・
このやり取りを読むと、『千と千尋の神隠し』の冒頭の場面を思い浮かべてしまいます。千尋は両親とともに引越先のニュータウンへ向かう途中、森の中の奇妙なトンネルから不思議な世界に迷い込んでしまう。「トンネルの向こうは不思議の街でした」というアレです。
そう思って、那須野の段の最初をもう一度読んでみると、こうなっています。
・・野中を行く。そこに野飼ひの馬あり。草刈る男に嘆き寄れば、野夫といへどもさすがに情け知らぬにはあらず。「いかがすべきや。されどもこの野は縦横に分かれて、うひうひしき旅人の道踏みたがへん、あやしうはべれば、この馬とどまる所にて馬を返しためへ」と貸しはべりぬ。・・やがて人里に至れば、価を鞍壺に結び付けて馬を返しぬ。
芭蕉はなにも語っていませんが、那須野の段の冒頭は『遊行柳』の冒頭の場面が踏まえられているのではないでしょうか。そして、われわれを夢幻の世界へ誘っているのではないでしょうか。
能にはいろんな曲がありますが、おおくの曲は筋立てがおなじです。諸国一見の僧が名所・旧跡にたちより、里人からその謂われを聞き、そこの霊を鎮魂するためお経をとなえていると、霊があらわれてお礼の舞を舞い、成仏していくというものです。
能はふつう前場(中入り)後場の2幕ものになっています。西洋の劇のように幕が下りる代わりに、中入りにより場面が切り替わったという約束ごとになっています。能の主役はシテ、脇役をワキといいます。ふつう前場と後場の主役は同じで、霊的な存在。前シテは霊の仮の姿、後シテは霊そのものです。
こういう霊が主役の能を夢幻能、そして前場と後場の2幕となっているものを複式夢幻能といいます。能の傑作はほとんど複式夢幻能となっています。『遊行柳』も複式夢幻能です。
遊行上人が白河関にやってくると、そこに老人が現れます。老人はむかしの遊行上人が通った古道を教え、そこに生えている銘木「朽木柳」に案内します。そしてむかし西行が立ち寄って歌を詠んだ故事を伝え、消えてしまいます。
夜、念仏を唱えていると、老柳の精が現れ、感謝し舞を舞います。夜明けとともに消えていき、あとには朽ち木の柳だけが残っていました。
おくのほそ道の旅で芭蕉がやっていることは、この諸国一見の僧がやっていることと同じです。念仏こそ唱えませんが、僧形で俳句をつくり、義経や佐藤兄弟など無念を残して死んだ霊を鎮魂していきます。
殺生石に近づきすぎると、ハイシンデマスになります。でもすこし下ると、おくのほそ道にでてくる那須温泉があります。ここに入ればすぐに生き返ります。
お奨めは鹿の湯。歴史は古く、開湯は1300年前、舒明天皇の時代だとか。狩野三郎行広が射損じて逃げる鹿を追って山奥に入ると、鹿が温泉で傷を癒やしていたのだとか。このエピソードにも那須野の野趣が濃厚です。
湯の温度は4つに分かれていて41~48度!私は48度には入りきれませんでした。だいたいもう湯の温度を感じないのではなかろうかという枯淡の境地、仙人のようなおじいちゃんばかりが数人入ってありました。
43度でもゆっくりゆっくり時間をかけて体をならして入り、途中で他の人が入ってきてさざ波でも立とうものなら、ふたたびハイシンデマス状態になってしまいました。
さて、トミーの投稿にあわせるため、あとさき逆になりましたが、鹿の湯からさらに坂を登った那須・茶臼岳にまずは登らなければなりません。温泉は帰りのお楽しみです。
那須岳は日本百名山です。いままでに3度登りました。3度目は2018年2月2日、雪山でした。那須岳は冬期でも雪がすくなく、雪山初心者でも登れます。
大丸というところから12本歯のアイゼンを装着して雪道を登ります。トレースはついていました。ロープウェイの山麓駅、峠の茶屋、峰の茶屋跡へ。風の通り道で、強風が吹いています。そこから稜線沿いに南下、茶臼岳山頂に到ります。山頂部はお鉢になっているので、ぐるっと一周します。帰りは来た道を戻ります。大丸まで往復約4時間のコースタイムです。
那須岳といえば、2017年3月に発生した雪崩事故が記憶にあたらしい。高校生ら8人が亡くなりました。この事故は上記の登山道とはちがうところで発生しました。登山道には雪崩が発生しそうな場所はないと思います。とはいえやはり冬山は冬山、各自お気をつけくだされ。
夏山であればロープウエイを利用して往復1時間くらいで登頂可能です。みなさまも一度どうぞ。そして、48度の高熱湯でハイシンデマス状態を体験されてください。
(役行者@愛嶽山、足駄を履いている)
もののふの矢並つくろうふ籠手の上に霰たばしる那須の篠原
源実朝『金槐和歌集』那須野・黒羽は栃木県北部、那須連山の麓にひろがる扇状地にあります。扇状地ですので、土質は砂礫層で雨が降っても地表にはとどまらず、伏流することになります。田をつくることができず、野がひろがることになります。それで那須野なわけです。那須野は鎌倉武士の実践訓練場でもありました。
おくのほそ道の那須野の段は、野、馬、武士、弓、騎射などのキーワードがちりばめられ、このような雰囲気をつたえています。はじめに那須野で道に迷わぬよう馬を借りましたし、結びで殺生石に行く際も馬です。その際、口付きの男に頼まれて詠んだ句は
野を横に馬引き向けよほととぎす
芭蕉のお弟子さんは商人・町人が多かったと思われますが、黒羽のお弟子さんは武家です。そのお武家さんが案内した名所も、那須の篠原、犬追物(犬を騎射する弓術の鍛錬法)跡、玉藻の前を射殺・退治した古墳、那須与一ゆかりの八幡宮と、いずれも武士に関わりのあるところです。
玉藻の前の話は後でするとして、今回は那須与一の話。名前のとおり那須野出身の武士のヒーロー。いまでいえば、筑陽学園出身・阪神タイガースの谷川昌希投手というところでしょうか。
彼は源平合戦のクライマックス、八島のたたかいで登場。波にゆれる船のうえ、平家がたの美女が扇の的を高々とかかげています。その扇の的を矢が届くギリギリの距離から見事射貫きました。パチパチ。
このエピソードは誰でも知っていると思っていました。が、事務所の研修旅行で小豆島に行った際、屋島が見えていたのでそう指摘したら、若い衆は無反応。いま日本史はあまり教えられていないんですね。ふぅ。
さて気になるのは与一ゆかりの八幡宮のくだり、おくのほそ道にはこうあります。
与一扇の的を射し時、「別してはわが国の氏神正八幡」と誓ひしも、この神社にてはべると聞けば、感応殊にしきりにおぼえらる-とあります。
念のため、手もとの『平家物語』の当該箇所を見てみると、ちょっと違います。少なくとも岩波文庫(四)166頁では、こうなっています。
与一、目をふさいで、「南無八幡大菩薩、我国の神明、日光権現・宇都宮・那須のゆぜん大明神、願くはあの扇のまンなか射させてたばせ給へ。これを射そんずる物ならば、弓きりをり自害して、人に二たび面をむかふべからず。いま一度本国へむかへんとおぼしめさば、この矢はづさせ給ふな」と、心のうちに祈念して・・・
八幡神は武運の神様なので、八幡大菩薩に帰依するとは言っています。が、「別してはわが国の氏神正八幡」という言葉は出てきません。浄法寺さんたちが地元の八幡さまを紹介する際、話を盛ったのでしょうか。
とまれ、那須山の麓にある湯元温泉、あとで紹介する殺生石があるところですが、そこには温泉神社があります。那須のゆぜん大明神とはここのことでしょう。少なくとも、同社の案内にはそう記載されています。
ただし、現在の温泉神社も鎌倉時代のものがそのままというわけではありません。まさしく不易流行なわけです。
(注)今回の記事はやや長いです。興味のない方は、※※※までお読みください。って興味ない人は最初から読まないか。じゃあ、気が向いたら最後まで読んでください。
谷川選手の移籍が決まりましたね!
えっ、知らない!?
阪神タイガースの谷川昌希投手が日本ハムファイターズに金銭トレードで移籍する話です。
地元の筑陽学園高校出身、東農大、九州三菱自動車を経て、2017年ドラフト5位で入団した右投右打の投手です。
阪神ファンの私はもちろん名前は知っていましたが、今回のトレード報道で初めて筑陽学園高校出身だったことを知りました。
中継ぎ投手の層が厚い阪神では今シーズンは活躍の場に恵まれませんでしたが、新天地でも頑張ってもらいたいですね!
※※※
ところで、金銭トレードですが、これ、なんでオッケーなんでしょうか。
普通の会社では、労働者を他の会社から金銭で買う、なんてできませんよね。
例えば、ちくし(株)に雇用される労働者富永を、Darvish(有)に金銭トレードしようとしても、富永の同意なしにはできません。
労使の合意原則(労働契約法3条1項)があるうえ、ちくし(株)が優位な立場を利用してDarish(有)に移籍する労働者富永の給料をピンハネするおそれがあるためです。
そのため、普通の会社では、金銭トレードなるものは、違法な労働者供給(職業安定法44条)として許されないものと考えられます。
では、プロ野球選手の場合はどうでしょうか。
選手と球団との契約は、日本プロフェッショナル野球協約に基づき、統一契約書による選手契約とされています(協約第44条本文)。
選手はプロ野球選手として特殊技能による稼働を球団のために行い(統一契約書第2条)、球団は選手に対して参稼報酬を支払います(同第3条)。
統一契約書の条項は、選手と球団の個別合意では変更できず(協約第47条)、協約の規定に違反する特約条項は無効とされます(協約第48条)。
要するに、選手は仕事として野球をし、球団は選手にお金を払う、という契約を12球団が統一様式で行っているということです。
この統一契約書の中に、次のような条文があります。
第21条(契約の譲渡) 選手は球団が選手契約による球団の権利義務譲渡のため、日本プロフェッショナル野球協約に従い本契約を参稼期間中および契約保留期間中、日本プロフェッショナル野球組織に属するいずれかの球団へ譲渡できることを承諾する。
金銭トレードはこの統一契約書第21条を根拠として行われている、ということです。
それでは、なぜ統一契約書第21条は労働者供給として職業安定法44条に違反しないのでしょうか。
この疑問に言及している文献等は、見つけられませんでしたので、以下は私見になります。
2つの考え方があると思われます。
①選手は「労働者」にあたらない。有償準委任契約の受任者である(準委任契約説)。
②トレードは「労働者供給」にあたらない。転籍(出向の一種)である(雇用契約・転籍説)。
まず、選手契約の法的性質を考える必要があります。
選手契約は、選手が仕事として野球をし、球団が選手にお金を払う、というサービス提供(役務提供)型の契約です。
民法の典型契約には、サービス提供(役務提供)型の契約が4種類あります。
雇用、請負、委任(準委任)、寄託です。
雇用は、イメージのとおり、労働者が労働に従事し、使用者が報酬(賃金、給料)を与える契約です。
請負は、建築のように、ある仕事を完成することに対して報酬を支払う契約です。
委任(準委任)は、事務の委託等を内容とする契約で、医師や弁護士などが典型です。
寄託は、物を保管してもらう契約になります。身近なもので言えば、預金契約は、金銭消費寄託契約という寄託契約の一種になります。
この中で、選手契約に近いもの、と考えると、まず物を預かるわけではないので寄託は違います。また、「優勝したら」とか「ホームラン30本打ったら」などの仕事の完成に対して報酬を払っている、というのもやや違うため、請負もはずれます(インセンティブ報酬等はあるのかもしれませんが)。
そうすると、雇用か委任(準委任)か、ということになります。
ここで、プロ野球選手の法的立場について考察した裁判例があります。
東京地決平成16年9月3日(裁判所ウェブサイト:908D342DDA372721492570DE00063F3 (courts.go.jp))です。
これは、近鉄がオリックスに営業譲渡して、選手会がストライキに突入したときの事案で、選手会が団体交渉を求める地位にあることの確認等を求めた仮処分事件になります。
東京地裁は、プロ野球選手が労働組合法上の「労働者」にあたることを肯定し、近鉄からオリックスへ営業譲渡されることに伴う選手の移籍を「解雇」や「転籍」という言葉を用いて議論しています。このことは、抗告審である東京高裁でも同様でした(東京高決平成16年9月6日、同9月8日)。
「どんな特徴いうてたんか言うてみてよ~。」
「東京地裁は『労働者』って言うてたんよ。」
「ほんならもう『労働契約』で決まりやないの~。」
とミルクボーイみたいなやりとりになると、
「でもな~」
になるんですよ。
この裁判例で肯定されたのは労働組合法上の「労働者」性なのですが、一般に、労働組合法上の「労働者」は労働基準法上の「労働者」よりも広く解されています。
つまり、労働組合法上の「労働者」にあたるとしても労働基準法上の「労働者」にあたるとは限らない、ということです。
実際、税法上も、プロ野球選手の所得は給与所得ではなく事業所得とされているようですし、プロ野球選手がサラリーマンと言われると違和感があります。
「球団社長、昨日の試合、ナイターで延長戦だったので残業代ください。」
みたいな話も、違和感ありまくりです。
もし、雇用契約だと理解するならば、金銭トレードは、出向の一種である転籍、と理解するのが自然な気がします。
ただ、半沢直樹の影響か、出向と理解すると、「片道きっぷの島流しじゃ~」というイメージになり、新天地に送り出される谷川がかわいそうです(注:世の中には活躍されている出向社員の方々も大勢おられます)。
そういうわけで、自説としては、選手契約は有償準委任契約であると理解したいと思います。
金銭トレードについては、契約上の地位の移転に対する包括的な事前承諾条項とでも理解するのでしょうか。
興味のある方は調べてみてください。
なお、Darvish(有)は実在しない架空の有限会社であり、ダルビッシュ有投手とは一切関係ありません。
富永
かれらの俳号は芭蕉の弟子だからでしょう。芭蕉は芭蕉と名乗る前は桃青と号していましたから。
芭蕉は自己の句風、すなわち蕉風をより高めるため、先輩歌人や禅僧に謙虚に教えを請うていました。それのみか、中国の詩人にもあやかろうとしたのが桃青という号です。
誰にあやかろうとしたのかわかりますか。中国の大先人、大詩人といえば、李白と杜甫です。どちらでしょう(笑)。
はい、李白ですね。李はスモモ、李白というのは白いスモモという名前です。芭蕉は李白にあやかって、青い桃と号したわけです。
おくのほそ道の冒頭「月日は百代の過客にして」とか、平泉の段「国破れて山河あり、城春にして草青みたり」とか、李白・杜甫に対するリスペクトは明らかです。
前者は、李白の「春夜桃李の園に宴するの序」の冒頭、「夫れ天地は万物の逆旅にして、光陰は百代の過客なり」から。後者は杜甫の「春望」から。
では、杜甫ではなく、李白の名前にあやかったのはぜでしょう?杜甫より李白の詩のほうが好きだった可能性もありますが、李白にあやかったほうが季語が入るという理由ではないでしょうか(笑)。
桃翠は実際には翠桃と名乗っていたようです。おくのほそ道の本文の記載が桃翠となっているのは誤記であるとの文献もあります。しかし、そうとはかぎらないように思います。芭蕉は翠桃より桃翠のほうがよい、あるいは、すくなくとも語呂がよいと考えた可能性があります。
翠桃は、芭蕉から桃翠と俳号を与えられたにもかかわらず、自分でこれをひっくりかえし翠桃と名乗っていた可能性だってあります。翠桃がそうした理由は黒羽と関係しているかもしれません。黒い羽の翠の桃になるので、かえって座りがよいので。
また緑ではなく翠というのも意味深。翠はカワセミとも読み、混じりけのない綺麗な羽をもつ鳥が由来です。黒い羽と平仄があうと思いませんか。
あるいは、ただ単に、すいとーとと思ったのかもしれません(なぜ、そこで博多弁?)。
雲巌寺に杖を曳けば、人々進んでともにいざなひ、若き人多く道のほどうち騒ぎて、おぼえずかの麓に到る・・。
吉永小百合は知らず、芭蕉は閉口したのではないでしょうか。なぜなら、芭蕉は物見遊山にでかけたのではなく、禅の師匠である仏頂和尚の修行の跡を見にいったのだったからです。
芭蕉の凄みは、常に現状に満足せず、絶えず自らの殻を破り、自己否定を繰り返すなかで、あたらしい道・遠くの理想を求めつづけた点にあると思います。
その姿勢は常に謙虚で、あらゆる分野の先人を師とあおぎ、それをヤスリにして自己を磨きつづけました。
現代経営の言葉でいえば、優れた先進企業の実例をベンチマークしつつ、経営革新(イノベーション)をしつづけるということでしょう。
こうして芭蕉は和歌や旅の師匠だけでなく、禅の師匠にも謙虚に教えを請い、師が修行した跡を訪ね、求道の糧としようとしたわけです。
ところが、芭蕉のこのような厳しい心のうちを知らない連中がたくさん付いてきて、ワイワイ騒いだというのですから、芭蕉の苦り切った心のつぶやきが聞こえてくるようです。まったくもう、どいつもこいつも・・・。
しかし、吉永小百合はおらずとも、雲巌寺の佇まいは芭蕉の期待を裏切らなかったようです。
山は奥のある景色にて、谷道遙かに、松・杉黒く、苔しただりて、卯月の天今なほ寒し。十景尽くる所、橋を渡って山門に入る。
美文がすばらしい。
さて、かの跡はいずくのほどにやと、後の山によぢ登れば、石上の小庵、岩窟に結び掛けたり。妙禅師の死関、法雲法師の石室を見るがごとし。
そして一句。
啄木も庵は破らず夏木立 (きつつきもいほはやぶらずなつこだち)
夏木立のなか、キツツキがあちこちの木に穴を空けているけれども、さすがに師匠が修行した庵は尊くて穴を空けるのを憚ったようだ・・。古びるもの、滅びるもののなか、古びざるもの、滅びざるものへの求道精神は明らかです。
芭蕉の旅は、各地の歌枕を訪ねる旅だけれども、各地のお弟子さんを訪ねる旅でもありました。いまでいえば、お相撲さんや歌舞伎俳優が各地をめぐって、芸を披露しつつ、タニマチさんの接待を受けるようなものでしょうか。
夏井先生が九州一周の旅にこられれば、われわれもきっと大歓迎。句会を開きつつ、二日市温泉・大丸別荘にて心からのもてなしをすることでしょう。そんな感じだと思います。
夏井先生と違いテレビのない時代、江戸で活躍していた芭蕉に、たくさんのお弟子さんたちが各地にいた理由は、参勤交代によるものでしょうか。
芭蕉が那須野を横切ってむかったお弟子さん宅は、黒羽の城代家老である浄法寺さんのところ。黒羽はいまの大田原市、城代家老はいまの副市長さんあたりでしょうか。
浄法寺さんの接待がよほど気にいったのでしょうか?おくのほそ道の旅のなかで、黒羽逗留がいちばん長くなります。そのため記事もおおく、①玉藻の前・那須の与一、②雲巌寺、③殺生石ー那須温泉の3つもあります。
本来、この順に紹介すべきでしょうが、前項でトミーが投げてきたボールを受けとめるため、一つとばして雲巌寺の話からはじめます。
雲巌寺、ごぞんじでしょうか?おそらく芭蕉ファン以外、九州の人は誰も知らないのではないでしょうか。
でも、東日本のおっさんたちは知っています。なぜなら、JR東日本・大人の休日倶楽部のCMで、吉永小百合がここを訪れ、歩いたからです。
それ以来、東日本のおっさんたちは、どいつもこいつも、一度は雲巌寺を訪れ、吉永小百合と歩いてみたいとあこがれるようになりました。
知らなかった人は、雲巌寺×吉永小百合で検索して動画を見てください。訪ねてみたくなること請け合いです。えっ、おまえはどの吉永小百合と歩いたのかって?さぁ?
「ちくし法律事務所」の日常: 地に足つけない東京出張 (chikushi-lo.jp)
「ちくし法律事務所」の日常: 日光・裏見の滝 (chikushi-lo.jp)
方向音痴でフラフラしていた話に関連して思い出したことがあります。
修習中にお世話になった先生から聞いた話です。
飛行機の新人パイロットは、着陸のときに機体をフラフラさせるのだそうです。
「どこ見てる?」と聞かれると、まっすぐ着陸させようとして、足元の滑走路の線ばかり見ているのだとか。
「もっと遠くを見据えなさい。」と、目線を遠くに向けるように指導されると、まっすぐ着陸できるようになったそうです。
いわく、「目の前のやらなきゃいけないことばかりに目を向けていないで、遠くの理想に目を向けなさい」という話でした。
良いこと言うじゃん、と思ったものです(上から目線ですみません)。
ようし、それなら、
「どいつもこいつも!」と言うと、続けてフラフラと目の前の愚痴が出てきそうなので、
これからは、遠くに目を向けて、
「ドイツもフランスも!」と言うことにします。
え?迷走してますか?
富永
君は山なの?などと、トミーがトンチンカンな問いをしているうちに、芭蕉一行は那須野に至りました。有名な場面です。
那須野は広大で縦横に道が分かれていました。いまのようにナビつきスマホを持参していなかった旅人は、よく道迷いをしていました。そこで芭蕉一行は、道迷いしないよう馬を借りました。すると、
小さき者ふたり、馬の跡慕ひて走る。ひとりは小姫にて、君の名はと問ふと、名を「かさね」といふ。聞き慣れぬ名のやさしかりければ、曽良が一句。
かさねとは八重撫子の名なるべし (撫子は、ナデシコ)
問うなら小姫の名でしょう、せめて花の名。トミーがんばれ。
※写真は、鎌倉・東慶寺の八重ヤマブキ、京都・醍醐寺の八重サクラ、那須野のツツジ、熊野古道の小殿・小姫です。八重撫子の写真は手もとにありませんでした。3つの写真を頭のなかでブレンドして、那須野の小姫・八重撫子のイメージを組み立ててください。
ブログの感想をくださる方々から、「U先生の教養のある話の間に、そんな教養のない話ばかり書いていて事務所的に大丈夫?」とよく心配されます。
それは、わかりません笑。
今のところは、大丈夫のようです。
さて、U先生が男体山の話を書かれているのをみて、またも、漢字が読めません。
「ちくし法律事務所」の日常: 日光白根山・男体山登山記 (chikushi-lo.jp)
「だいたいやま」って、君は山なの?山じゃないの?どっちなのさ、と心の中でツッコんでしまいました。
「なんたいさん」って読むんですね。
裁判官に聞かれたのでなくてよかったです。
「ちくし法律事務所」の日常: 裁判官、当職そこは分からないです・・・ (chikushi-lo.jp)
富永
P.S.
音読みしても「だんたいやま」ですね。まあいいか。
どうやら同行トミーはまだお江戸をウロウロしているようです。そうとうな方向音痴です。地理に詳しい曽良とえらい違いです。しかたないので、先に行きます。
神父と医者と弁護士の友だちはいたほうがよいといわれます。いざというときに役に立つからです。いずれも昔から聖職とされてきました。
たほう、弁護士はつきあいづらい隣人ともいわれます。職業がら、ものごとの裏を見るくせがついているので、素直にものが言いづらいということでしょう。
そのせいか、親近感のある日光・裏見の滝。なぜ裏見の滝なのでしょうか。
二十余町山を登って、滝あり。岩洞の頂より飛流して百尺、千岩の碧潭に落ちたり。岩窟に身をひそめ入りて滝の裏より見れば、裏見の滝と申しはべるなり。
なるほど。美文の冴えもあり、滝の迫力やキラキラ感が充溢しています。そして一句。
しばらくは滝にこもるや夏の初め
はや夏の句。夏は立夏から。いまの暦で5月5日からです。ことしは季節の進みゆきがとてもはやく、半月~1か月はいつもよりはやい。すでにツツジやフジが満開です。行く春を惜しむ間もありませんでしたね。
先日、東京出張に行ってきました。
今回は、地に足つけずに行きました(注:飛行機で行きました)。
「ちくし法律事務所」の日常: 参勤交代!! (chikushi-lo.jp)
あ、仕事はちゃんと地に足つけてやってきましたよ。
案の定、というべきか、道に迷いました。
東京って電波悪いんですかね?GPSが地図上でうろうろして現在地が分からなくなるときがあります。
それにしても、この方向音痴はなんとかならないですかね~。
方向を二択で迷って、勘で選ぶと十中八九、真逆です。
あ~、今度からは自分の勘とは逆方向に進むようにしようかなあ。
方向音痴で私の右に出る人はいないでしょうね。
まあ、当の本人は、右も左も分かっていないわけですが。
富永
芭蕉一行は御山に参詣しています。御山は日光山です。その前は「二荒山」と書いていました。それを弘法大師空海が「日光」と改めました。「にっこう」の音が共通しているからです。
私が言うと駄洒落と非難されることも、空海や芭蕉が言うと格調高く評価されるのはなぜでしょう?なぞです。
ではなぜ「二荒」なのか。いま東部鉄道にSL「ふたら」が走っています。二荒も「にっこう」ではなく「ふたら」と読みます。「ふたら」の由来は「補陀落(ふだらく)」にあるという説があり、ぼくもそうだと思います。
補陀落は観音菩薩が降臨する霊場です。日本では熊野や日光が補陀落になぞらえられ、信仰を集めました。中世熊野では船に乗って補陀落を目指す、補陀落渡海がさかんに行われました。平家物語でも維盛はこの考えにもとづき入水します。
補陀落(ふだらく)→二荒(ふたら)→日光(にっこう)。繰り返しますが、駄洒落ではありません。
ここで芭蕉が詠んだ句
あらたふと青葉若葉の日の光
「あら、尊と」は感嘆詞です。あらは荒ではありませんが、もちろん韻を踏んでいると思います。駄洒落ではありません。
はい、日光男体山を背にニッコリ(パシャ)。
ブログを書いていると、一定数、ブログ受けをしてくださる(感想をくださる)方々がおられるのですが、これまででもっとも不評だったのが、「多~い、お茶」でした(「ちくし法律事務所」の日常: 写真で一言 (chikushi-lo.jp))。
自分の記憶でも、随分、疲れているときに書いたような気がするのですが、曰く「あれなら書かない方がまし」という感想を何人かからいただきました。
ところが最近、「多~い、お茶」が面白かったという感想を、これまた何人かからいただきました。
実は、これの元ネタは、私が日光東照宮に行ったときの記憶にありまして、境内の中にある自動販売機のラインナップが、すべて「お~いお茶」だった、というものです。
そりゃあ「多~いお茶」やがな、とツッコミを入れた覚えがあります。
「日光東照宮 自動販売機」でググれば写真が出てきますが、著作権の関係が面倒なのと、実際に行かれる方の楽しみを奪わないよう、写真はあげないでおきます。
日光東照宮に行かれる際は、ぜひ探してみてください。
富永
「ゴミを捨てないで下さい。」と書かれたゴミ箱に出会いました。
ゴミを減らすための掲示か、はたまたペットボトル等以外の可燃ゴミを捨てないでという趣旨かは分かりませんが、「君は何のためにそこにいるの?」という気持ちになりました。
まるで、
「私にもう寿司を頼まないで下さい。」と言っている寿司職人のような、
「私のタクシーにはもう乗らないで下さい。」と言っているタクシー運転手のような。
自らの存在意義を問いかける、哀愁ただようゴミ箱の立ち姿でした。
何か嫌なことでもあったのでしょうかね。
とりあえず、「お疲れ様です。」と心の中で声をかけ、その場を後にしました。
富永
番組(おくの細道)の途中ですが、週末、西穗高岳の丸山まで登ってきました。もちろんまだ雪が残っています。が、例年にくらべると雪解けがはやいです。
雪山なんてとてもというかたも多いと思います。しかしながら、西穗高であれば、ロープウェイで標高2,156メートルまでは行けます。
西穗高口駅には展望所があり、そこからの絶景は素晴らしいの一語につきます。いちどは行かれることをお奨めします。
われわれが行ったのは今月3日の土曜から。新穗高ロープウエイの山麓の駅は新穗高温泉駅。V字谷の底にあるわけですが、西側に笠ヶ岳、東側に槍穂連峰、焼岳がそびえています。
この写真は西側、笠ヶ岳が見えています。とても美しい。もうドキドキワクワクがとまりません。
同行曽良は神道や地理にもくわしく、その説明。ここの神さまは、木の花咲くや姫で、富士山麓にある浅間神社とおなじ神さまです(出発の朝、富士の峰幽かに見えたことが思い浮かびます。)。
日向に降臨した天孫・ニニギが姫に求婚しました。父のオオヤマツミは喜んで、姉のイワナガ姫もさしだしました。けれども、ニニギはこの申出を断り、コノハナサクヤ姫とだけ結婚しました。彼らの子や孫の命が岩のように長くはつづかず、花のように儚いのはそのためだとか。なかなか美しい話です。
妻は一夜にして身ごもり、そのため夫は自分の子だろうかと疑いました。なかなか人間臭い話です。
妻は身の潔白を証明するため、夫の子であるから焼け死ぬことはないと誓いをたて、産屋に火を放ちました。新婚早々、激しい夫婦です。炎のなかから無事、火々出見(ホホデミ)の尊が誕生、誓いの火室に花が咲きました。
以上、室の八島の名前の由来です(八島は竈の意味)。ホホデミは海幸・山幸物語の山幸、山幸の孫が神武天皇です。以来、ここは煙のたつところとして歌に詠まれてきました。
いかでかは思ひありとも知らすべき 室の八島の煙ならでは
藤原実方
じぶんの思いをどうしたら伝えられるだろう、八島の煙ならそれができるのに僕にはできない・・・。いまなら煙ではなく、SNSや各種アプリでしょうか。どんなにツールが発達しても、最後は勇気ですかね。さねかたは有名な貴公子なので、覚えておいてください。
コノシロという魚がいます。この地では、焼いて食べることを禁じられています。「この城を焼く」というのが縁起が悪いためだとか、人体を焼くような悪臭がするためだとか、木の花咲くや姫の苦難をしのぶためだとか。
たどり着いたのは草加の宿とされています。草加煎餅の草加です。そして草加ではいま『おくのほそ道』の名所・旧跡がいろいろと紹介されています。
ところが草加にとって不都合なことに、『曽良旅日記』の存在があります(昭和18年出版)。曽良はこの旅の同行者。これにより、『おくのほそ道』は旅日記の体裁で、ノンフィクションぽいけれども、じつはフィクションである、そういうことが明らかになっています。文学作品ですから、考えてみれば当然です。
曽良によれば、芭蕉一行は千住のつぎは、草加ではなく、春日部に泊まっています。いわく
・・千住ニ揚ル。
一 廿七日夜、カスカベニ泊ル。江戸ヨリ九里余。
芭蕉はなぜ春日部ではなく、草加に泊まったことにしたのでしょうか。春日部はあのクレヨンしんちゃんの舞台です。クレヨンしんちゃんの舞台だと俗におちると考えたのでしょうか。まさかね。草加煎餅のほうが、おくの細道の流れにあうと考えたのでしょうか。「グルメ旅、ウナギのつぎは煎餅だ!」まさかね。
答えは本文にもないようです。さきほどのつづき。
痩骨の肩にかかれる物、まづ苦しむ。ただ身すがらにと出で立ちはべるを、紙子一衣は夜の防ぎ、浴衣・雨具・墨・筆のたぐひ、あるはさりがたき餞などしたるは、さすがにうち捨てがたくて、路次の煩ひとなれるこそわりなけれ。
ただひたすら荷がおもいと嘆くばかり(この嘆きは、山歩きをする者には切実です。)。なぜ、草加でなければならなかったのか。不易流行の観点から説明ができるのかもしれませんが、浅学非才の身には荷がおもい・・・。
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