2011年11月9日水曜日
運命のすれちがい
運命の出会いというのはわかりやすい。
出会った事実と感動があるのだから。
でも運命のすれちがいというのはどうだろう?
出会いの事実も感動もないのであるから、わかりにくい。
訴訟でも、事実があったことの証明はできないことはないが
なかったことの証明は「鬼の証明」と呼ばれています。
それで、立証責任という議論があり
原則として、事実があったと主張するほうが立証責任を負います。
それはさておき、運命のすれちがいが描かれるのは
一般には小説、テレビや映画のドラマのなか。
当人どうしは気づかないからこそ、すれちがう
であれば、それ以外の第三者の視点を入れる必要があるので。
日本で一番有名なのは(というか、有名とされているのは)
『君の名は』の真知子と春樹。
東京大空襲の夜、一緒に逃げ惑った見知らぬ男女は
なんとか銀座の数寄屋橋にたどり着く。
そこで2人は、名を名乗らないまま、お互いに生きていたら半年後
それがだめならまた半年後にこの橋で会おうと約束し、そのまま別れる。
その後、運命のいたずらか
お互いに数寄屋橋で相手を待つも、すれちがいがつづく。
やっと会えたとき
真知子はすでに人妻となっていた。…
というわけで、運命のすれちがいに日本中の男女が涙したとされています。
(私は残念ながら、同時代的に体験していません。)
私がいちばん好きなのは
映画『ドクトル・ジバゴ』のなかの、それ。
医師で詩人のジバゴと恋人ララ
ロシア革命の混乱のなか、彼らの運命は翻弄されます。
街中でほんのすこしのタイミングですれちがう彼らに
「ほら!後ろを振り返って!」と声をかけたくなります。
こうした運命のすれちがいも
さいきんは携帯電話の普及により様がわりした感があります。
ドラマのなか、恋人どうしがうかつに出会えないでいると
「なんでケータイしないの!」と突っ込みをいれたくなります。
むかしながらの切ない運命のすれちがいも
テクノロジーの進歩により陳腐化してしまったなぁ…。
と嘆いていたところ
いまでも運命のすれちがいが存在することをさいきん発見。
これもまた皮肉なことに
テクノロジーの進歩に負うことになります。
せんじつ、阿蘇山にのぼった旨フェイスブックに報告したところ
同じ日時ころ近辺にいたとのコメントが2件寄せられました。
うち1件は高校時代の恩師(大阪府在住)によるもので
日付のみならず阿蘇ロープウェイ駅という場所までおなじ。
時間だけ、数時間だけ、すれちがっていたわけです。
とてもお会いしたかったので、とても残念。
これはもう運命のすれちがいです。
たしかに、いまでも運命のすれちがいは健在です。
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