2010年12月17日金曜日
運命に立ち向かう
西鉄電車のなかで「ノルウェイの森」を読んでいたら天神につき
降りようとしたら、隣で松山ケンイチさんが本を読んでいました。
と一瞬おもったところ、松山さん似ではあるものの
松山さんから4割値引きくらいの西南学院大学の学生さんでした。
(ま、4割引いても元値が高いのでそこそこイケメン)
というか、彼が読んでいる本に、西南の図書館の印が。
なんの本かなとのぞき込むと
「…すると、先輩が本の向こうからのぞきこんだ。…」などと
その時の状況にみあったくだりは読めたものの
何の本かは分かりませんでした。
他人の読んでいる本が何なのか異常に気になる今日このごろです
とくに、電車のなかで。
さて以前、「Hello,Again~昔とちがうところ~」で
こう書きました。
リスペクトする作品に自己の趣向をつけくわえて
新しい作品世界をつくりだす(カバーする)作業は
なにも徳永英明さんやJUJUさんがはじめたものではありません。
古今、新古今の時代からおこなわれていたことです(本歌取り)。
人類の歴史が先人の知的営みになにものかを付けくわえていく作業だ
とすれば、歌も例外ではありえません。
この文脈でいえば、小説も例外ではありえません。
「ノルウェイの森」はこのことを鮮やかに示した見事な作品と考えます。
とくに、村上さんは「本歌」(本ネタ)を明かしつつ
小説を展開しているところがすごい。
いわく「グレート・ギャツビー」「魔の山」「車輪の下」…。
先行作品は小説にかぎらず、歌と歌詞そう
「ノルウエイの森」「ノーホエア・マン(ひとりぼっちのあいつ)」…。
これらは本作品を読み解くヒントであり
村上さんの読者への挑戦であり
先行する諸作品の豊かなイメージを援用する作業です。
「僕」は、ギャツビーであり、「魔の山」のハンスであり
「車輪の下」ハンスでもあるようです。
これらのなかで、いちばん先行しているのは
もちろんエウリピデス(実は、ソフォクレス)
小説のなかで、少なくとも3度出てきます。
緑の父親に僕が説明したところによると、こうです。
「エウリピデス知ってますか?
昔のギリシャ人で、アイキュロス、ソフォクレスとならんで
ギリシャ悲劇のビッグ・スリーと言われています。…」
「彼の芝居の特徴はいろんな物事がぐしゃぐしゃに混乱して
身動きがとれなくなってしまうことなんです。わかります?
いろんな人が出てきて、そのそれぞれにそれぞれの事情と
理由と言いぶんがあって、誰もがそれなりの正義と幸福を
追求しているわけです。そしてそのおかげで全員がにっちも
さっちもいかなくなっちゃうんです。…」
「ノルウェイの森」の特徴も、まさしくこのとおり。
たとえば、僕が緑とはじめて唇をあわせたあとの会話は
こうなっています。
「あなたには好きな女の子いるの?」
「いるよ」
「でも日曜日はいつも暇なのね?」
「とても複雑なんだ」と僕は言った。
また、緑の父親に僕が説明したところによると、こう。
「それでどうなると思います?これがまた実に簡単な話で
最後に神様が出てくるんです。そして交通整理するんです。
お前あっち行け、お前こっち来い、お前あれと一緒になれ
お前そこでしばらくじっとしてろっていう風に。…」
エウリピデスは、僕が受けている「演劇史Ⅱ」の講義で
やっています。
そもそも演劇というのは、自分とはことなるペルゾナを演じるので
もう一人の自分という2種類の人格が前提となっています。
ぼくが緑と出会った、というか緑にキャッチ(ナンパ)されたのは
この「演劇史Ⅱ」の講義をともに受けていたことがきっかけ。
2度目に緑に会った講義も「演劇史Ⅱ」
ヘルメットをかぶった学生2人が演説をはじめたので抜け出し
緑のリードで四谷の弁当屋、彼女の高校まで行きました。
これは緑の登場が、直子と僕の関係がぐしゃぐしゃに混乱して身動きが
とれなくなってしまいにっちもさっちもいかなくなっちゃったところに
神がもたらした「交通整理」であることを示唆しているのでしょうか?
さらに、緑の父親に僕が説明したところによると、こう。
「そして全てはぴたっと解決します。
これはデウス・エクス・マキナと呼ばれています。
エウリピデスの芝居にはしょっちゅうこのデウス・エクス・
マキナが出てきて、そのあたりで
エウリピデスの評価がわかれるわけです。」
そして僕は緑の父に対し
「ソフォクレスの方が好きですけどね」と述べています。
(「演劇史Ⅱ」についても 一応聴く価値のあるきちんとした講義
だったが、楽しいとは言えないという評価)
僕は、エウリピデスとソフォクレスを対比し
ソフォクレスを評価するわけです。
ソフォクレスは、「オイディプス王」を書いた人で
絶対なる運命=神々に翻弄されながらも
悲壮に立ち向かう人間を描いたものが多い、とされます。
「ノルウェイの森」のラストは、うっかりすると
直子の自死という、神の交通整理により
僕が緑に電話をかけたように受け止めてしまいそう。
でもほんとうのところは、その前に
それまで神々に翻弄されていた僕が
絶対なる運命に立ち向かい、緑を愛し
それをレイコさんに全てをうちあけたことに
なっています。
僕は、実はオイディプス王なわけです。
これに対し緑は僕にエレクトラと名乗っています。
つまり、エディプス・コンプレックスのオイディプスと
エレクトラ・コンプレックスのエレクトラの組合せ。
僕がエディプス・コンプレックスを抱えているようにはみえない
とのもっともな異論はありましょう。
これについては直子が僕に対しこう反論しています。
「普通の人間だよ。普通の家に生まれて、普通に育って
普通の顔をして、普通の成績で、普通のことを考えている」
と僕は言った。
「ねえ、自分のことを普通の人間だという人を信用しちゃいけない
と書いていたのはあなたの大好きなスコット・フィッツジェラルド
じゃなかったかしら?…」
と直子はいたずらっぽく笑いながら言った。
「たしかに」
と僕は認めた。
レイコさんからは「あなたって何かこう不思議なしゃべり方するわねえ」
「あの『ライ麦畑』の男の子の真似してるわけじゃないわよね」などと
いわれています。このしゃべり方は普通じゃありません。
直子のしゃべり方も(まるで強風の吹く丘の上でしゃべっている
みたいだった)と僕が評しており、やはり『ライ麦畑』の男の子の
しゃべり方と同じだったようです。
ところで、僕がハンブルグ空港に着陸する直前の飛行機の中で
「ノルウェイの森」を耳にするところから、この物語は始まります。
その曲が僕を18年前の回想へトリップさせます。
なぜ、作品の冒頭はハンブルグ空港なのでしょうか?
(この点はまた)
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