2010年12月13日月曜日
夢のまた夢のまた…
映画「ノルウエイの森」を観ました。
その感想を述へる前に、「樹影讃」のつづきを書いてしまいます
それが映画の解釈の前提にもなるので。
といふわけで村上春樹さんの「若い読者」も
丸谷才一さんの「樹影譚」も読んでるヒマがない人のために
へたくそなガイドながら「樹影譚」の世界へご招待。
以下ネタバレですが、これを読んでから
「樹影譚」を読んでも十分に面白いはず。
そもそも「樹影譚」そのものが非常にネタバレかつ挑発的。
「これからこんなことを書くもんね」と宣言したり
「小説の読みはこうするんよ」とか
「小説を書く手法はこれだから」などと
小説の読み・書きに関するネタ(リテラシー)が満載で
サービス精神たつぷり。
「これからこんなことを書くもんね」の部分が外枠となり
本小説はマトリョーシカ人形のような入れ子構造になっています。
単純な入れ子構造ではなく
幹から太い枝、細い枝がつぎつぎに生えてゐる「樹影」
のような構造にもなつています。
(枝先からまた芽が出て樹が生えたりします…)
最初のマトリョーシカ人形の主人公は「小説家のわたし」
そこには、つぎの4つの世界が。
1 わたしの世界
わたしの「樹影フェチ」の性癖とその考察
その性癖を種にした短編小説の執筆の思い立ち、放棄
ナボコフ作と思ふ短編小説の探索
この小説が夢であることの論証
小説家の古屋を主人公とする短編小説の執筆
2 ナボコフ作と思ふ短編小説(実は自作?)
主人公である亡命ロシア人の「樹影フェチ」の由来
3 わたしの夢の世界
4 「小説家の古屋逸平を主人公とする短編小説」
「古屋逸平を主人公とする短編小説(その1)」からは、つぎの世界が。
1 老作家・古屋の世界(現在)
①古屋の家族、経歴、作風、作品
②日記や創作ノートを兼ねるスクラップ・ブック
③樹影の写真、その探索
④「樹影フェチ」の性癖、その考察
⑤「樹の影、樹の影、樹の影」といふ、つぶやき事件
⑥「樹影フェチ」の由来の考察
⑦自分の小説中の人物は、樹影に接してもつぶやかないこと
2 古屋が想を練つてゐる長編小説といふか、脇筋の姦通(不倫)
そのなかでの樹影写真事件
1の①からまた、つぎの世界が。
ア 名古屋の割烹旅館の娘が…といふ最も有名な長編小説
イ 文芸評論「秋成か宣長か」
1の④からまた、つぎの世界が。
ア 15年ほど前、バンコクでの樹影経験
イ 昭和20年8月、寸劇騒ぎのときの樹影経験
さらに
博徒の親分、妾、子分の寸劇
昭和30年ごろ、スクラップ・ブックに書きつけ
ウ 戦後まもなく、離婚・家移り後の樹影経験
1の⑦からまた、つぎの世界が。
ア 長編小説「海流瓶」の脇役の話
イ 長編小説「蝶を打つ」
「古屋逸平を主人公とする短編小説(その2)」からは、つぎの世界が。
1 郷里での講演
2 文芸雑誌の新年号の評論を書く前に走り書きしたメモ
3 老婆らとの手紙のやりとり
4 老婆らとの虚々実々の会談というか、怪談
2からまた、つぎの世界が。
①小説の起源についてのフランス女流評論家の論の要約
そこから
ア オイディプス王(捨子)、シンデレラ(継子)が小説の原型
イ A大衆小説、B自伝小説、Cどちらでもないもの分類論
ウ 小説の本質論=放恣な夢・魂の告白、夢遊病者の夜の散歩
②志賀直哉の長編小説「暗夜行路」論、折口信夫論、明治後期の精神史
これだけのネタがわずか92頁の短編小説につまつてゐて
量的にもネタ満載、サービス精神たつぷりなわけです。
A川次郎さん、T野圭吾さんだつたら
これらのネタで10や20の小説を書かれたことでせう。
フランス女流評論家が看破するように
小説の本質が畢竟、放恣な夢であるとすれば
入れ子構造の小説は、放恣な夢のまた夢のまた夢…。
実際、作中「古屋と兄弟弟子と考へるのが一番いいかもしれない」
とされるボルヘスは、夢の中の夢の中の夢…
みたいな小説を書いてゐます。
虜囚の「わたし」は
牢の床に砂が一粒落ちている夢を見る。
夢を見るたびに砂は二粒、三粒と増えてゆき
やがて無数の砂粒で「わたし」は死にそうになる。
目覚めても砂はある。
誰かが「わたし」に
「汝は真に目覚めたのでなく、前の夢へと目覚めたのだ。
その夢はまたもう一つの夢の中にある。
無限に夢が重なるのだ」
と告げる…。
※なお、「若い読者」をパクつてはいませんので
「似てゐるふしは多少あるかもしれない」けれど
「盗作呼ばはりされることはまさかないと思」ひます。
(「樹影譚」の外枠の「わたし」より)
※※「樹影譚」は嘘のような本当のような話が
嘘のようでもあり本当のようでもあるように
夢・うつつのごとく書かれてゐて
あの村上さんでさえ、翻弄されています。
フランス女流作家の批評の実在性を否定したところ
のちに三浦雅士さんから、その実在性をおしえられ
末尾の注で苦しい弁解をされてゐるところなど。
※※※長大な作品を物するのは
数分間で語りつくせる着想を五百ページにわたって展開するのは
労のみ多くて功少ない狂気の沙汰である。
よりましな方法は
それらの書物がすでに存在すると見せかけて
要約や注釈を差しだすことだ。
(ボルヘス「伝奇集」岩波文庫)
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