きのうの馬奈木弁護士の論旨は、古川柳「江戸の町は市内騒然七月六日は普通の日ならず」を本歌として、俵万智の「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」の歌を解釈したほうが、「面白いに決まっている」ということだった。
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
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江戸の町は市内騒然七月六日は普通の日ならず
不肖の弟子としても、やはりそのとおりだと思う。でも不肖の弟子ゆえに、もう一つの解釈を提案しておきたい。
援用されている古川柳にはさらに本歌があると思う。芭蕉が「おくのほそ道」の越後路で詠んだ、この句である。
文月や六日も常の夜には似ず
旅泊を重ねるうちにはや文月(旧暦七月)を迎え、日々に秋のけはいの動いてゆく中で、いよいよ明日は牽牛・織女の二星が年に一度の交会をとげるその前夜だと思えば、今日六日の夜も、常の夜とは違い、空のたたずまいにもただならぬものが感ぜられる(潁原退蔵・尾形仂訳注・角川文庫・新版おくのほそ道・本文評釈)。
古川柳とは、江戸時代に確立された、滑稽や風刺を主とする短詩文芸。柄井川柳が選句した時代(宝暦7年~寛政元年)の作品を指すという。宝暦7年は1757年である。他方、松尾芭蕉がおくのほそ道を旅したのは1689(元禄2)年である。くだんの古川柳は、芭蕉の句を踏まえて、滑稽化して川柳としたとしてまちがいなかろう。つまり、
文月や六日も常の夜には似ず
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江戸の町は市内騒然七月六日は普通の日ならず
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「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
という作品創作の流れがあったのだろう。
しかし、本歌どりということであれば、むしろ古川柳を省略して、
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
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文月や六日も常の夜には似ず
こちらのほうがいいと思う。なぜなら「おくのほそ道」越後路には、同句のすぐ後ろ(翌日)にあの名句が控えているから。
荒海や佐渡に横たふ天の河
旅泊に見る黒々とした日本海の荒海。その荒波の隔てるかなたには、順徳院・日蓮・日野資朝・世阿弥などの幾多の哀史を秘め、今また悲しい流人の島として知られる佐渡が島が遠く横たわり、銀河が白くその上にかかっている。空の二星も交会をとげるというこの夜、島の人たちはこの荒海に隔てられた家郷の人々をどんなに恋い慕いながら、あの星の橋を仰いでいることだろうと思えば、ひとり北海のほとりをさすらう自分の心もしめつけられるような思いがする(同上)。
つまり、
「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日
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文月や六日も常の夜には似ず
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荒海や佐渡に横たふ天の河
こちらのほうがはるかに広大で美しく豊かな情景が広がるように思うのだが、どうだろう?